人を信じて儲けと書く。利益はひとり占めしてはならない、みんなに分配して初めてもっと大きな利益を生む。一代で最大級の立ち食いそばチェーンを築き上げたホワイト企業経営者の哲学とは──。
名代富士そば・ダイタングループ会長の丹道夫さん 撮影/吉岡竜紀

 平成29年元日──。

 百貨店やスーパーの元旦営業が当然のこととなり、関東の繁華街は初売り目当ての買い物客で大変な賑わいだ。駅の周辺もまた、普段と変わらぬ人の波、波、波……。

 となれば、周囲の店も開店せざるをえない。店員さんたちはといえば、年末から働きづめの状態なのだろう、疲れがはっきり顔に出ている。

 そんな繁華街の駅近くで、他店の正月営業もどこ吹く風と、扉を閉ざしたままの店が1軒。立ち食いでおなじみの『名代 富士そば』だ。正月飾りの大きなダイダイの下で、『5日より営業します』との貼り紙が揺れている。

 正月早々競うように店を開け、ビジネスに狂騒する他店を尻目に、同店を経営するダイタングループ会長の丹道夫さん(81)は、業界トップクラスのそばチェーン網を築いた辣腕経営者とは思えない穏やかな口調で言う。

人は馬鹿じゃない、計算するよ。休みもなくて金もくれなきゃ働かない。ブラック企業と言われるような経営なんて、僕には考えられないよ

 実は同社は、人手不足で過労死さえ発生している飲食業界にありながら、前述の年始の休みをはじめ、パート、アルバイトへの賞与や退職金、3交代8時間勤務制で“ブラック企業”ならぬ“ホワイト企業”と話題となっているのだ。そんな『名代 富士そば』を率いる丹道夫会長とは──?

◇  ◇  ◇

「僕は愛媛県にある1987メートルの石鎚山の中腹にある大保木村で育ちました。生まれてすぐに父・大野鎌次郎が亡くなり、5歳のときに母・ウメが実家に帰り、大保木村に住んでいた丹高助と再婚したからです」

 山林を所有、製材業者に材木を商う山師であり、10軒もの借家を持っていた高助さんは、出かけた際、疲れて歩けなくなった丹少年をおぶって町まで運んでくれるような、やさしい義理の父だった。

「ところが、そんな義父が弟の誕生とともにコロッと変わった。5歳の僕を、まるで奴隷のように扱い始めた」

 300坪の畑の手入れをはじめ、水くみ、掃除と連日、連夜の重労働。

 ある日の食卓でのことだった。その日のおかずはウメさん得意の小エビと大根の煮物。醤油のトロリとした照りがいかにも食欲をそそる。ところが高助さんからの“さあ食べろ”の声に丹少年が箸をのばすと、高助さんから音がするほど強烈に箸で手を打たれた。

 70年以上たった今でも、語る丹さんの顔色が変わり、穏やかだった声が震える。

「食べろといって食べようと手をのばしたら叩く。僕に食べさせるのが惜しかったんだね、義父は。(5歳の子に)こんなこと、普通できないでしょう! 義父からは“命余って銭足らず(寿命までにお金が足りなくなってしまわないようまじめに働けの意)”とか、今につながるいろんなことを教わりました。でも今でも義父のことは好きになれない。金儲けはうまかったけど、愛がなかったんです

 こんな義父には、母・ウメさんもまた苦労した。母は病弱だったが高助さんは治療のためのお金も出さない。医療費は、ウメさん自身が指輪や帯留めを売って工面していた。

 “義父のもとから早くひとり立ちしたい──”。

 自然それが、丹少年の強い思いとなっていく。

高校は中退、年季奉公も続かず東京を目指すが……

撮影/吉岡竜紀

母の夢、母がなぜこんなところに嫁に行ったかというと、僕に教育をつけたかったから。“道夫、勉強しなければダメだ”、常々そう言っていましたね

 こんな母の願いもあり、丹さんは山を20キロも下ったところにある愛媛県立西条南高等学校農業科定時制に入学する。学費は、ウメさんが畑で取れた作物で醤油や味噌を作っては夫の目を盗み、近所で売って工面してくれていた。

 ところが、こんな苦労の末に入学させてもらった高校を、丹さんはわずか1学期で中退してしまうのだ。

「中学でいた組からは4名が高校に行ったんだけど、20キロもあるから通いきれない。4人でアパートを借りたけど、食事を作る人もいないし。長続きはしなかった」

 ウメさんが嘆く中、義父・高助さんのすすめで八百屋さんに年季奉公をするが、これも長くは続かない。

「ひとりで店番をしなくちゃならなくて、それがなんとも寂しくてね……」

 銭湯でガソリンスタンドの店員と知り合い、誘われて転職するが、高級石けんを1つ買うと給料の大半がなくなるほどの薄給に嫌気がさし、ここも1年3か月で退職した。

「先輩たちは仕事の帰り道、かき氷なんか食べてたね。会社の金なんだけど、“いいんだよ、給料安いんだから”とか言って」

 さらには“ぶらぶらしていてもしかたない”と、中学の恩師・I先生からの誘いで上京。ウメさんの猛反対にも耳を貸さず、東京は人形町の着物問屋で面接を受けるが、これもまた失敗してしまう。

「僕は当時背中が弱かった。それで面接で“身体は丈夫ですか?”と聞かれ、四国出身なんで“お大師さんのやいと(お灸)をすえたほうがいいんです”と答えたら、“そんな面倒な子はいらない”と。それで落ちてしまったんです」

 だが面接の帰り道、生まれて初めての出会いがあった。

「神田でね、面接終わって生まれて初めてそばを食べた。実はそれまで食べたことがなかったの。四国はうどんだからね。ざるそばで、“こんなに食べられない!”と思ったら、ざるで上げ底になっていてね(笑)」

 一代で業界最大級のそばチェーンを築き上げることになる経営者も、親の期待を何度も裏切り、就活で失敗したのだ。もちろん将来そば店の経営で知られるようになろうとは、夢にも思っていなかった。

 夢破れての帰省だったが、ウメさんはわが子の帰還を大喜びして迎えてくれた。

 だがブラブラ遊んでばかりもいられない。仕事を探すと、三輪自動車の運転手を募集していた。大保木村の中央を流れる加茂川で水力発電所建設の工事がスタート、作業員や道具類を運ぶ運転手を探していたのだ。

 丹さんがこの時代のこんなエピソードを披露する。

「僕がバス停にいたら、作業員の男同士がいがみ合っていたんだ。1人は韓国の人で、韓国語で男に罵声を浴びせかけると、男が言い返すのが見えた。そうしたら韓国の人が頭にきたんだろなあ、500メートルぐらい下にあった家に黙って戻ると大きなドスを持ってきて、日本人の男をグサッと。日本人はその場で死んでしまったね」

 昭和25年ごろの話で終戦直後の荒い気風が残っていた。

 だがそんな毎日も、水力発電所の完成と同時に終わりとなる。降って湧いた仕事に蟻が群がるようだった作業員たちは次を考え気もそぞろに。

 15歳になっていた丹少年もそれは同じで、脳裏に浮かぶのは、着物問屋面接の際に垣間見た東京のことばかり。

 ベルトコンベヤーのように流れ行く山手線。爆音を上げて走り去る自動車と、ネオンサインの下、さんざめきながら行き交う若者たち。愛媛の小さな村の青年には、東京の何もかもが眩しかった。

 “もう1度、上京したい。自分自身を試してみたい──”

 丹青年は意を決し、母・ウメさんに思いを告げた。

 “頑張っておいで──”

 母からのひと言を胸に、丹青年は再び東京へと向かう。

 東京でなにをするのか、それ以前に、東京のどこへ行くのかさえも決めないまま、15歳での旅立ちだった。

大宮へ向かうはずが、なぜか福島の平へ

「東京に行こうと瀬戸内海を船で渡って、岡山県玉野市の宇野の港に着いたとたん、みんなダーッと一斉に駆け出す。汽車の席を取ろうとしてね。そうするとヤクザがやって来て席を押さえてしまう。それをみんなに売るんだね」

 当時、東京までは一昼夜の長旅だった。車内では床の上にも人が新聞紙を敷いて座り込み、立錐の余地もない。そんな汽車にかろうじて乗り込んだ丹少年に、前に座っていた女子大生風の女性が声をかけた。

 “坊や、どこへ行くの?”

 東京に行くと答えたが、泊まる場所すら決まっていない。正直にそう答えると、“渡る世間に鬼はない”とはまさにこのこと、女子大生は手帳を取り出して破り取り、“なにかあったら連絡しなさい”と、大宮の自宅住所と電話番号をくれたのだ。

 当時を思い出し、丹さんがしみじみと言う。

「お礼を言って受け取ったけど、今から考えると女性の部屋の電話番号などよく教えてくれたものだなあと。本当にありがたかった」

 無事、東京駅に到着したが恩師がいた前回とは違い、心細いことこのうえなかった。

「駅員さんに“出口はどっちですか?”と聞いたら“4つある”と。故郷の西条駅には出口は1つしかないからすくんじゃってね。今でも覚えているけれど、30分ぐらいだったかな、柱の陰で立ちすくんでた」

 くだんの女子大生に電話しようと思ったが、大宮にあるというアパートには、まだ着いていないかもしれない。

「それで上野の西郷隆盛像を見てから大宮に行き、そこで電話しようと思ったの。それで汽車に乗ったけど、行けども行けども大宮らしい駅に着かない」

 隣のおばあさんに“大宮はまだですかね?”と尋ねると、“この汽車は大宮には行かないよ。福島県の平行きだ”。

 上野から京浜東北線に乗ればいいものを、常磐線に乗ってしまったのだ!

 こんな偶然で15歳の少年は、福島県のいわき湯本温泉がある常磐炭鉱の鹿島坑にたどり着く。想定外の展開だったが、仕事を得ないことには、ホームレスになりかねない。背に腹はかえられないと今にも風でちぎれそうな『坑夫募集』の貼り紙に応募、職を得た。

 炭坑内部に冷えた空気を送り込む縦坑を掘る仕事で、飯場と呼ばれる宿泊施設に泊まり込み、トロッコに砂利を詰め込む仕事をするのだ。

「温泉地だけにお湯が豊かで、ガンガンとあふれ出ていて。でも飯場は長屋で、枕は丸太を1本通したもので、それにタオルや座布団を乗せて三交代制で寝るの。

 でも楽しかったねえ。だって山(故郷)では義父、八百屋では話す人が誰もいないし、ガソリンスタンドでは石けん買ったら給料が吹っ飛んじゃう。

 飯場には入れ墨を入れたヤクザ者もたくさんいたけど、鼻歌を歌いながら仕事していても文句をつける人は1人もいない。精神的に解放された。

僕は今でも思うんだけど、精神的な圧迫が人間には一番悪いと思う。以前僕が勤めたガソリンスタンドだってそうでしょう? 給料安いからごまかすし、働かない。みんな(従業員)計算するのよ。給料が安すぎたら、たとえ力を持っていても、100%の力を出さないよ

 この時代の経験が現在の富士そばの経営方針にも大きな影響を与えているというが、当時はまだ、トロッコで砂利を運ぶ一従業員にすぎない。

 丹少年はここ鹿島の炭坑で働きながら19歳で福島県立湯本高校夜間部に通い、砂利運搬の仕事から資材の在庫を管理する倉庫番に出世する。

 異例の大抜擢だったというが、いいことは長く続かない。

 縦坑も完成し、またまた仕事にあぶれてしまったのだ。

 東京にとって帰って飯田橋の印刷会社に就職するが、南京虫にくわれた痕が悪化して歩行困難になり、郷里・愛媛への帰郷を余儀なくされた。

 郷里では愛媛県立西条高等学校定時制に転入。新聞配達や、エプロンや肌着などの行商をしつつ無事修了するが、当時の愛媛には仕事らしい仕事がない。

 21歳になっていた丹青年は、3度目の東京への挑戦を試みる。

3度目の高校生活となった、愛媛県立・西条高校時代。英語部の友人たちとキャンプに行った。左端が丹さん

3度目の上京。畑違いの栄養学校に入学

 “なんとしても東京で一旗揚げたい──”

 そう決意して21歳で3度目の上京をした丹青年が選んだのは、世田谷栄養学校への入学。これまでとは畑違いの分野の学校を選んだ理由をこんなふうに語っている。

「5月になっていて、入学願書の提出なんてとっくに締め切っていて、学校に行ける状態なんかじゃなかった。それに東京に出て泊まるところにも困ってた。だから寮があって月謝が安いので選んだのがここ。栄養とか調理にはなんの興味もなかった」

 だが、ここで今も大切にしている教えを得る。

「山から下りてきた母に“これからなにをするんだい?”と聞かれ、学生寮の中で親子でしみじみと話したのね。

 母は“道夫、利益はひとり占めしちゃダメだ。利益はみんなに分配して初めてもっと大きな利益になるんだよ”と。僕が思うに、母自身の経験から出た言葉だったんだろうね。うちの父は金ばっか集めて誰にも分け与えなかったでしょう。だから誰もいい仕事を持ってこないんだと

 母の言葉を胸に刻みつけた丹青年は同校で2年学び、栄養士の免許を取得して世田谷にあった大病院に就職した。

 だが生まれて初めてのこの安定した職場を、丹さんはまた辞めてしまうのだ。

「結核患者の喫食率を調べたいと協力を頼んでも、周囲は仕事が終われば一刻でも早く帰って趣味に走る人ばかり。そのうち調理場のおじさんが僕を呼んで、“公務員は遅れず、休まず、仕事せず”だと。でも僕は全力を尽くしてやりたい。だからそれを聞いたときに、“これじゃダメだ”と。それで辞めたのね、そこを」

 そのあと料理学校の生徒勧誘の仕事に転職、多くの生徒を勧誘した。

上の人から“丹くん、才能あるよ”と言われたの。“どうしてですか?”と尋ねると、“丹くんはお辞儀の仕方がいい”と。あのときはうれしかったねえ。営業職で生涯生きていこうと思ったね

 丹さんは当時27歳。初めて手にしたやりがいに燃えていたが、突然、故郷から前途を中断させる知らせが届いた。

 なにあろう高助さん死去の知らせで、ようやっと打ち込めそうな仕事を見つけたというその矢先に、故郷への帰郷を余儀なくされてしまったのだ──。

 初めて手応えを感じた仕事を、よりもよって義父・高助さんの死で阻止されて……。

 あのまま営業職を続けていれば、まったく別の人生を歩んでいたかもしれない。だがこの帰省がのちの成功につながったことを思えば、帰郷はむしろ高助さんからの最後の贈り物だったのかもしれない。

 愛媛に帰った丹さんは大保木村を出、愛媛県西条市に転居、この地で『西条料理教室』を開いた。医師の奥さんや花嫁修業中の企業経営者の娘さんなど、60名ほどの生徒さんが集まったが、当時の四国の小さな商圏では、すぐに行き詰まってしまった。

 丹さん自身も、故郷でなく東京でひと花咲かせたいと痛切に思っていた。

 いつか呼び寄せるからと母・ウメさんに約束。寝袋片手に上京した。もう後はないとの覚悟を決めて、4度目の上京である。

不動産業に一か八かの大ばくち!

撮影/吉岡竜紀

 栄養学校時代の友人の紹介で、弁当店に職を得た。

「本当は外食店相手に物を卸す仕事がしたくてね。味噌汁に入れる牡蠣の粉を販売する仕事に就こうと行ったんだけど、横で弁当屋をやっていて1日2000食から売れるの。人手がなくて、そこを手伝うことになっちゃったの」

 義父・高助さんの死による帰郷に始まり、今度は食品販売会社勤務とは名ばかりの調理の仕事。丹さんが自分の前半生を振り返って言う。

自分の意志じゃなくて、振り回されていたんだね。毎日を生きていくことのほうが先だった

 だが、この弁当店での経験が、丹さんの成功の端緒となる。

 栄養学校時代の知り合いのKさんの誘いで独立を決意。それを機会に、愛媛から母・ウメさんを呼び寄せた。愛媛の家を売った100万円から60万円を出してもらい、埼玉県蕨市に家を購入、その隣にわずか4・5坪の弁当店『東栄給食センター』を開業したのだ。蕨からもほど近い、川口市の鋳物工場で働く人たちをターゲットに、Kさんと共同で設立した事業だった。

 新事業は大当たりした。

「1日600食で、ひと月の収入が60万円。世の中の金全部取ったような気がしたね」

 家1軒が60万円で買えた時代の話である。

 ようやっとつかんだ成功への足がかり。ひと月600食売れるなら、1000食、1500食と事業を成長させていくことだってできたはず。 

 ところが、ここでもこの仕事を辞めてしまうのだ。

「友人のOさんから電話がかかってきて、“丹さん、不動産屋をやらないか?”と。

 どんだけ儲かるのかと聞くと、弁当屋とは桁が違うのよ。

 それで弁当店は弟に任せ、“よし、僕は不動産業に勝負をかける!”と」

 昭和39年、Oさんはじめ、仲間3名と1000万円を出資して渋谷の道玄坂にオフィスを構え、勢い込んで栃木県那須の不動産を商うビジネスを始めた。ところがこれが、一向に売れないのだ……。

「とにかく明けても暮れても人(お客)が来ない。営業担当常務として60人のスタッフを抱え、上野の不忍池周辺の、魚屋さんや肉屋さんなど小売業をしている人に飛び込み営業もしたけれど、1週間かけても1つも売れない。水をかけられたこともあったなあ。それで“これはいよいよ年末ごろには潰れるんかな”と」

 倒産目前、転機は意外なところからやってきた。生まれて初めての上京、すなわち人形町の着物問屋での面接に誘ってくれて、そばとの出会いを作ってくれたI先生が、那須の土地を買ってくれたのだ!

 このころ開催された東京オリンピックとその土地開発が、不動産ブームに火をつけた。I先生のようなサラリーマンにとっても、土地購入が大きな夢になっていたのだ。

「そうだ、サラリーマン相手に売ればいいんだと。そうしたら3か月で61もの契約が取れた!」

 潰れるかもしれなかった丹さんらの不動産会社は、その年の年末には高級レストランを借り切っての大宴会が開けるほどに。

 さらには昭和47年に発表された田中角栄元首相の『日本列島改造論』の後押しもあり、丹さんらの不動産会社は空前の好景気に沸き続ける。大型バーや若者たちが踊るゴーゴークラブ、そば店などの経営にも乗りだし、あのデヴィ夫人が在籍したことでも知られる高級クラブ『コパカパーナ』で連日豪遊したという。

 まさにわが世の春、日の出の勢い。

 だが丹さんは、こうした濡れ手に粟のビジネスから、突如として手を引くことを選択するのだ。

いい人がいてこそ会社は伸びる

ものすごく儲かったんだけど、こんな仕事は長く続かないと思ったの。立ち食いでもやって、もっと地道にやっていこうと

 ヒントとなったのは、自らがすでに渋谷でやっていた立ち食いそばの『そば清』。

おばさんが店にいると、お客さんがガーッとやって来る。おばさんがそばを素早く作ると、お客さんがそれをバッと食べては帰るわけ。それを見て、“これは東京に合う!”と。東京は忙しい街だから

 事業の方向を定めた丹さんは、共同経営者たちとの連携を解消し、昭和41年から立ち食いそば店の経営に本格的に乗り出した。将来は立ち退くという約束で開店した西荻窪店を皮切りに、わずか1・5坪の池袋のサンシャイン通り店、さらには新宿の伊勢丹横店etc.。

 翌昭和42年には日本初となる24時間営業を開始したが、それが夜型にシフトし始めていた都会の生活にぴったりとマッチした。 

「もう(そばが)売れに売れてね。みんながいうには“どんぶりが飛んでいた”と」

 昭和47年には屋号を『そば清』から現在の『名代 富士そば』に変更した。“富士そば”の名は、東京に出て初めて見た富士山のあまりの美しさに感動した経験から取ったという。

上京して初めて見た富士山の美しさに感動して名づけた「富士そば」。過密労働が取りざたされる飲食業界にあって、異例のホワイト企業

 以来、24時間営業とそれによる食材ロス0などで『名代 富士そば』は急成長、現在では国内に116店舗、海外に10店舗を誇る一大そばチェーンに成長を遂げる。

 平成27年には、80歳になったのをきっかけに、代表取締役職を息子の丹有樹さんに譲り、会長職に就任した。

 在社歴40年、アルバイトで入社して、今では丹会長の盟友の一人でもある相談役の川村宏さん(61歳)は、富士そば急成長の秘密を、丹会長の“人を信じて任せる姿勢”にあると語る。

人に任せるのって難しいですけれど、任されたらそれなりに働かなければならないじゃないですか。任されたら頑張るしかないし、任せなければそれ以上のことはできない。任していい人に恵まれたと言い換えることもできるかもしれません。こう言うと、自分を褒めていることになってしまうかもしれませんけど(笑)」

 また人間・丹道夫を評してこんなことを言う。

「ひょうひょうとしていますが、運の強い人だと思います。会長はほとんどギャンブルはしないですけど、社員旅行でひょんなことでパチンコしたらボロ勝ちをする。麻雀も役もわからないのに勝ってしまう。そんな運の強いところがありますね」

 息子で代表取締役社長である丹有樹さん(42歳)は、父・丹道夫をこんなふうに言う。

物事を否定された記憶がないんです。僕は大学卒業したあと会社を作って29歳までテニスのコーチをしてたんですけれど、“それもいいじゃない”って感じでしたし

 そして富士そば興隆の秘密についてはこう語る。

「僕はどちらかというとしっかり勉強してきた人間で、ロジカルに考えるほうだと思うんですけど、会長は逆で、人間の感情から考える人なんです。当社の仕組みも、会長の“人はこう考えるからこうしたほうがいいよ”っていうものの積み重ねで作られているんですが、それが非常にうまく動いている。理屈でないところで物事が見えているという感覚がありますね

【左】有樹さん「多忙にもかかわらず家族のイベントには必ずいる父親だった」。【右】川村さん「会長は切り替えの早い人」 撮影/吉岡竜紀

◇  ◇  ◇

 盟友たちのこんな言葉も尻目に、丹さんは今日もひょうひょうとしたペースを崩さない。

 そして、自らの半生を評してこんなふうに言う。

「ホントに僕はよくぞここまでこれたと思うよ。才能もなにもないのに」

 そしてこう続ける。

社員こそ内部留保(企業の蓄え・財産)なのね。企業は人なり。いい社員がいなければ、会社なんて伸びない。僕はそう思うなあ

 人生のらせん階段を上り続けて会得した“人が宝”の経営。それを武器に、丹道夫は平成大不況下の日本を駆け抜ける──。

*週刊女性2017年2月7日号掲載