藤村俊二さん、いや“おヒョイ”さんが亡くなった。誰からも愛された粋人だったから、愛称で呼びたくなる。
「舞台からヒョイッと消えてしまうことがよくあったことからつけられたあだ名です。この呼び名のとおり、軽妙な雰囲気を持った方でしたね。柔らかな態度を崩さない紳士でした」(映画ライター)
'15年12月に『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系)のナレーションを降板してから、療養生活を送っていたという。1月25日に入院先で息を引き取った。82歳だった。多彩な分野で活動した藤村さんだが、もともとは演出家志望だった。戦後すぐに父親が日本初の洋画封切館の『スバル座』を作った影響で、映画に興味を持ったという。
「早稲田大学文学部の演劇科に入学しますが、中退して東宝芸能学校に進みました。その後、日劇ダンシングチームのヨーロッパ公演に参加したことがその後の人生を変えたようです。しばらくパリに滞在し、本場のワインの味に出会ったそうです」(前出・スポーツ紙記者)
バラエティー番組でもスマートなトークを披露して人気だったが、俳優業でも、
「とぼけたキャラや重厚な空気をまとう老紳士の役もこなしました。貴重な名脇役としてオファーは絶えませんでしたね」(前出・映画ライター)
藤村さんは食通としても知られていた。“美味しくないものは食べない”“これを食べるならここ”と、こだわりが強かったという。そば好きの彼がよく訪れた『室町砂場 赤坂店』の女将、松村ヨシ子さんに人となりを聞いてみた。
「優しいという印象ですね。お連れの方に丁寧に料理の説明をしたり、“辛いの食べられる?”など優しい気遣いをされていました。ほかのお客さんに声をかけられたときも、気さくに対応してらっしゃいました」
62歳の誕生日にはかねてからの夢であったワインバー『O'hyoi's』(オヒョイズ)を都内に開店した。
“マザコン”彷彿させるお店での接客
「本物志向で、内装にはかなりお金をかけていました。わざわざイギリス人建築家を招き、現地の建築資材を使って仕上げたんです」(前出・スポーツ紙記者)
こだわりの詰まった店内は大盛況。2階は自宅になっていたので、毎晩のように自ら接客した。
「店内にはアメリカのジャズが流れていましたね。ワインは現地で調達したフランス産のもの。自分が気に入ったワインを提供したかったんですよ。本格的なのに価格は良心的でしたから、人気店となったのは当然です。
しかも藤村さんが自ら店に立って“いかがですか?”とテーブルを回って話しかけてくれるんですよ。客が帰るときは、見えなくなるまで店頭に出て見送っていました。昔、学校に行くときにお母さんにそうしてもらったことに倣っているそうです」(当時の常連客)
“マザコン”と公言していた藤村さんらしい話だ。
「彼とは長い付き合い」だという、旅行会社社長の塚田伸夫さんは、オヒョイズで一緒に飲んだ日々を懐かしむ。
「店で友達と飲むことが大好きで、ときには自腹を切って飲ませていました。“美味しいワインがあるから飲みな”という感じでタダで飲ませていましたよ」
自分の好きなワインをともに味わうことに楽しみを見いだしていたらしい。
「一緒にいた人たちが僕に“ワイン飲ませてよ”とたかってきたことがあったんですよ。そのときも、“俺がごちそうしてやるから”と、僕の友達にワインをプレゼントしてくれました。人の喜ぶことは何でもする人でしたね。あんな人、ほかにいないですよ」(前出・塚田さん)
友人との憩いを優先する藤村さんだったが、理不尽にも自らは病気に苦しめられた。
「53歳のときに肺気胸にかかり、片肺を摘出しています。3年後には胃ガンと診断され、手術で胃の3分の2を切除。64歳のときには大動脈瘤が見つかりました」(前出・スポーツ紙記者)
胃ガンが発覚したときは5年もの間、周囲の人間に隠し通した。
気配りの美学とは
「身体の具合が悪いことを人には見せたくない、と思っていたようですね。入っていた仕事を全部こなした後、海外ロケに行くと言って入院しました。人に弱みを見せない人なんです」(芸能プロ関係者)
病気でも、決して悲観的にはならない。'09年の『週刊女性』のインタビューでは、自然体の闘病生活を語っていた。
《大好きなワインも食べ物も意識して控えたりしていません。やりたくないことはやらず、体調を見ながら自然に生活するのが元気の秘訣です》
胃ガンが治ってひと月後には鮑のステーキを食べに行ったというマイペースぶりだ。しかし、周囲の人間はどうしても心配してしまう。
「藤村さんは、'96年に28歳年下の元タレント・長尾みか代さんと再婚しています。当時は自律神経失調症で、睡眠薬を飲まないと眠れない状態でした。それなのに、彼はお酒を控えることをしなかったみたいで、みか代さんは薬とお酒を併用するのをとても心配していましたよ」(みか代さんの知人)
2月1日に行われた会見で、みか代さんとは'13年に離婚していたことが長男の亜実さんから明かされた。療養中の藤村さんを支えたのが亜実さんで、近所の喫茶店には親子で連れ立って訪れていたという。
「1年くらい前までは、月に数回来られていましたよ。息子さんとも来ていましたね。お飲みになるのはブレンドコーヒーで、深煎りのコーヒー豆をよくお買いあげいただきました。
ただ、ここ最近は体調が優れなかったのか、お店には来ていませんでしたね……。藤村さんの代わりに息子さんやスタッフの方がコーヒー豆を買いに来てくださいました」(喫茶店スタッフ)
亜実さんは子どものころに父に叱られた記憶があると話していた。“家で勉強するな。家で勉強すると頭の悪い子に産んだように感じるからやめろ”と言われたのだ。
「このセリフは、もとはといえば藤村さんのお母さんのものですよ。幼いころにそう言われてから、おヒョイさんは頻繁に外へ遊びにいき、仲間を見つけたそうです」(前出・スポーツ紙記者)
しかし、その教えを“本当に正しいのだろうか”と葛藤した亜実さんは、最終的に、「親父のようにはなれない」と悟ったという。どこまでも飄々とした彼だからこそ、できた生き方なのかもしれない─。