訪問国数150か国、地球をおよそ180周。国家元首から秘境の村人までさまざまな人たちと触れ合い、憧れの都会から極地や奥地まで、『世界』をテレビ画面を通してお茶の間に届けてくれた、兼高かおるさん。この春、89歳になろうとする今も彼女の旅は続いていた──。
兼高かおるさん

 お顔を拝見したとたん、『80日間世界一周』の、あの優雅でどこか高揚感のある曲が頭の中で流れ出した。

 番組のオンエアは、確か日曜日の朝。オープニングの、機体に大きく『PAN AM』と書かれたジェット機が、今にも飛び立たんとしているシーンを思い出す。そしてこの人が、まだ見ぬ憧れの名所旧跡を紹介し、エキゾチックな国々を歩き、夢のようなセレブたちとも臆することなく渡り合うのを、ため息つきながら見ていたことを。

 1ドル360円、海外旅行が夢のまた夢だった昭和34年(1959年)に放送を開始。平成2年(1990年)の終了まで、放送回数、実に1586回、訪れた国150か国という旅行番組『兼高かおる世界の旅』は、その後の海外旅行ブームの火つけ役ともなった。

 そのプロデューサー兼ディレクター兼レポーターこそが兼高かおるさん(88)だ。

 2016年、訪日外国人客数が2403万9000名にのぼり過去最高を記録した。本年度は、12%増の2700万人にのぼると予想する(JTB『2017年の見通し』より)。

 空前の日本旅行ブームの中、150か国を旅してきた日本初の国際派レポーターが語る、日本の魅力と課題、そして、その半生とは──。

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 『世界の旅』で、毎週お目にかかっていたころと変わらない上品な物言いで、兼高さんが語り出す。

「わたくしが通っていたのは東京のキリスト教系のお嬢様学校で、体育で走ったりするときには“ごめんあそばせ”と言って追い越すよう指導されるような学校でした。そんな学校でラグビーのまねや木登りなんかしましたから、先生からは怒られましたね。母といえば、そんなわたくしを叱ろうともせず“ケガしないように下りてらっしゃい”とだけ言うような女性でした」

 兼高さんいわく“大正モダンを絵に描いたような自由人”という母親のもと、のびのびと育った女の子も、時代の趨勢にのみ込まれていく。昭和16年(1941年)、日本が太平洋戦争に突入したのだ。

 ミッション系で、英語教育に力を入れていた学校だったが、週に8時間の英語の授業が4時間に減らされた。敵国語だったからである。

「それじゃしょうがないと、英語の家庭教師についたの。日本人(の先生)でしたから、文法とかのほうでしたけど」

 健康な者だったら例外はなかったという勤労奉仕も経験した。

「男は工場、女は縫い物。わたくしは工場も縫い物もやりましたね。大崎にありました沖電気で女工をやったり、学校の教室で、満州にいる兵隊さんが着るチョッキのボタンつけなどもしました」

 非常時ならではの、ミステリアスな出会いもあった。

 友人の父親が海外で真っ白なオーバーコートを入手した。おしゃれがしたい盛りの10代がそろって高揚したのも無理はない。オーバーを見せびらかそうと銀座の大通りに繰り出した彼女たちに、大学生らしい青年が声をかけた。

「真っ白なオーバーなんて、当時の東京には売っていませんよ。あかぬけていて物がよくて。わたくしたちがそんな物を着ているものだから、向こうも英語で話しかけてきた。チャイニーズでした」

 ほどなく彼から、流ちょうな日本語でしたためられた手紙が届くようになった。帝国ホテルのラウンジや、横浜の中華街でデートを重ねるが、

「絶対に家には近づかないの。送ってきても、家のある辻まで来るとピタッと立ち止まってわたくしが門に入るのを見守っている。なぜかといろいろ考えて、“スパイなんじゃないか”と……」

 彼から“一緒に(中国に)来てほしい”とプロポーズされ“、あの方と結婚してもいいですか?”と母親に尋ねると、

「即座に“いけません!”」

 兼高さんのミステリアスな恋はそこで終わるが、この話には後日談がある。

 『世界の旅』の仕事で台湾を訪れたときのことである。

 兼高さんの台湾訪問が現地の新聞に取り上げられ、タラップを下りる姿が掲載された。

 すると記事の切り抜きとともに彼自身の写真を添えて、“これは兼高さんではありませんか?”という手紙が送られてきたというのだ。

「それを見ると、どうも好みのタイプじゃないの(笑)。彼からの封筒のアドレスは日本語でいう“気付”になっていて、台湾に行ったときに探したんですけれど、“この住所にこういう人はいません”。

 中国語の“気付”という言葉がわかっていたら、聞きようがありましたけれど。でも、これは神様の命令ですよ。“これはここでストップ!”というね(笑)」

 そこまで語ると兼高さんは、私たちのさらなる追求を煙に巻くべく、あの大きな瞳をくりくりっとさせて、にっこりと微笑む。

考えてもいなかったロサンゼルス市大へ留学

 昭和20年(1945年)、そんなミステリアスなロマンスをもたらした戦争も終結。兼高さんは、医大への進学を希望した。

「兄が病身だったので、入れ替わり立ち替わり、いろいろな先生にお願いしていたんです。うちにいらっしゃるお医者様には楽しい方が多くてね。それで“医者っていいなあ”と思ったんです」

 ところが受験は失敗。理由は意外なところにあった。

「通っていた女学校のお隣に医大がありまして、朝、時間ギリギリで走っていくと、窓から医大生が、“走れ!”と応援してくれるんです。

 それでわたくしも、見上げて笑ったりしておりましたら、女学校のシスターたちはそれは問題だと。“知らない男の人に愛嬌を振りまくのは、風紀を乱す”というんです」

 厳格なシスターたちには、10代の女の子が醸し出す一陣の春風も、不良の行いにしか見えない。校内でのラクビーのまね事やら、こうしたことが重なって、内申書の評価点が極めてシブかったのだ。

 兼高さんは一転、当時はエアガールと呼ばれていた花形職業スチュワーデスを目指す。

「当時はプロペラ機でしょう。だから(志望者は)目方でいうと体重12貫(45キロ)、背が150センチまでとか、決まっていたんです。

 わたくしは背が高かったものですから、目方も重い。目方か背の高さかのどちらかでダメだったんです」

 最終的に目指したのは、ホテル経営。夏休みには家族とともに鎌倉のリゾートホテルで過ごすのが常で、ホテルは身近なものだった。

 ホテル経営といえば、スイスが本場である。かの国で学ぶべく、まずはフランス語を身につけようと家庭教師についてみたが、どうも発音がマスターできない。イギリス留学も考えたが、戦勝国とはいえ、厳しい配給生活が続いている。

 消去法で、世界有数のホテル学科を有するアメリカはニューヨーク州の名門、コーネル大学のホテル学科に願書を出すが、同大から返ってきたのは、“当校にはホテル業に関係のある者しか入学できません”とのつれない返事。

「それで仕方なく、一番考えていなかったアメリカのロサンゼルス市大へ進むんです」

垣間見たアメリカの豊かさ、懐の深さ

「進駐軍の日本占領が終了したのが昭和27年(1952年)。わたくしはその2年後の昭和29年(1954年)、26歳のときにハワイ経由でアメリカに留学しました」

 戦争直後の、国民の大部分が食うや食わずだったあの時代、留学には結核にかかっていないことを証明するレントゲン写真が必要で、さらには学費一切の面倒を見るスポンサーが欠かせなかった。

 当時のアメリカのおおらかさをしのばせる話がある。

 期待と不安で胸を高鳴らせた兼高さんが経由地のハワイはホノルル空港に着き、入国検査でレントゲン写真を提出して待っていた。同乗の人たちは1人、2人と消えていき、とうとう彼女だけが残された。

「わたくし結核の経験者でしたから、入国できないのかしらととても不安で。それでしばらく1人で立っていたら、空港係員がやって来て、“何をしているんだ。友達が待っているから早く荷物を持って出ていけ!(笑)”。無事、アメリカに入国することができたんです」

 査証を持った者すら追い返す、トランプ政権下のアメリカとはなんと異なることか。

 生まれて初めてのハワイは驚きの連続だったという。

「豊かだなあと思いましたね。食事に行きましょうと連れていってもらったら、テーブルの上に生のパイナップルが切ってあって、無料だっていうんです。“ホントですか!?”と全部食べちゃった(笑)」

 パイナップルなど、見たこともない日本人がほとんどという時代だった。

初めての海外だったハワイは、今でも好きな場所。2009年3月

 ハワイ経由で到着したロサンゼルスでは、ロサンゼルス市立大学に入学、ビジネスを学ぶことに。大学の斡旋で牧師の家に下宿、ひたすら勉強の毎日を送った。戦争が終わって10年もたっていなかったが、旧敵国からの留学生に、アメリカの人々は親切なことこのうえなかったと語る。

 ロスでは周りの人々の教養の高さにも圧倒された。この2月に出版された、作家の曽野綾子氏との対談集『わたくしたちの旅のかたち』(秀和システム刊)から引用しよう。

《留学してまだ日も浅い頃、カリフォルニア大学の教授がランチに招いてくださいました。(中略)お宅にお邪魔して驚いたのは、お客さまがそれぞれこともなげに楽器を弾いて、室内楽のアンサンブルが始まったことでした。

 それからお食事になりましたが、今度は天文学の話題です。(中略)わたくしは一言も口をはさめず、内心、かなり焦りました》

 戦争による立ち後れを痛感させられた兼高さんはせき立てられるように勉強に打ち込んでいく。言葉の問題などもあり、当時は4年間で卒業できる者などほとんどいない。兼高さんはなんとしても4年で卒業すべく、夜間の講座も取り、夏休み中も通学した。

 そんな猛勉強の結果、優等生として学費は免除、名前が町の新聞に載ることに。

「それでその新聞を、日本に帰る人に持って帰ってもらったんですよ、母に見せるようにと。すると母は、それを包み紙だと思って捨ててしまった! もう、もったいないことをしました(笑)」

ガイドをきっかけに日本初の海外レポーターに

 寝る時間もないぐらい辞書を引き、勉強を続けた兼高さんだったが、無理がたたったのか、体重は42キロにまで落ちてしまった。

「それで検診に行ったら、わたくしに結核があることがバレてしまって。急いで帰らないと結核患者ばかりの施設に連れて行かれてしまう。そうなったら大変と、その日のうちに日本に帰ってきてしまった」

 結核が国民病という時代だったが、まずはこの病気を治そうと、この病気の特効薬・ストレプトマイシンを取り寄せた。同時に英語を忘れないようにと、訪日外国人のガイドとインタビューの仕事を始めた。ストラビンスキー(ロシアの作曲家)や旅行作家など“これ”という人に限定しての仕事だった。

「でもそのときも、わたくしは日本のことを知ってないなと痛感させられましたね」

 昭和33年(1958年)2月、早回り世界一周にチャレンジしていたアメリカ人、ジョセフ・カボリー氏が89時間18分37秒の世界記録を樹立した。

 ちょうどそのころ、外国人記者クラブに出入りするようになっていた兼高さんは、耳寄りな情報を耳にする。

 それまでヨーロッパに向かうには、マニラなどを経由する南回り航路しかなかった。

 ところが今度、スカンジナビア航空が東京とコペンハーゲンを結ぶ北回り航路を新設するというのだ。それを上手に利用すれば、新記録を打ち立てられる可能性がある。

 『80日間世界一周』ならぬ『80時間世界一周』のこの試みに、マスコミもおおいに注目。兼高さんはコペンハーゲンに向かい、そこからヨーロッパ数か国を回り、アンカレジ経由で東京というルートで、カボリー氏の記録を破る、73時間9分35秒の早回り新記録を打ち立てた。

1958年、「世界早回り」で新記録をつくった直後。コペンハーゲンでもらった民族衣装を身につけて

 世界新記録での凱旋帰国に、羽田空港では報道陣が大挙して押しかける騒ぎに。

 だがこれが『世界の旅』誕生の端緒となる。ラジオ東京(現TBS)の目にとまり、海外に住む日本人にインタビューする仕事が舞い込んだのだ。兼高さんが振り返る。

「ラジオ東京から電話がかかってきてね。何を聞かれたかは覚えてないけど、向こうの電話口で話していた人がそばの人に、“大丈夫そうですよ、日本語”と言っているのが聞こえました。(兼高さんが)日本語ができるかと、心配だったんですね(笑)」

 番組では大阪万博の『太陽の塔』で有名な岡本太郎氏などをインタビュー。これらが好評で、半年後にはテレビの海外取材番組『世界飛び歩き』に。のちに改題して『兼高かおる世界の旅』となる。

 同番組の記念すべき第1回の旅先は、永遠の都、ローマ。

 1ドルが360円、持ち出し制限が1日17ドルの時代の、100日間の取材旅行である。羽田空港には横断幕が掲げられ、万歳三唱に見送られての旅立ちだった。

 兼高さんが第1回の取材をなつかしそうに回想する。

「わたくしは着物に日傘でしたから、まるでマダム・バタフライ。大通りを歩いていても、反対側の歩道が人でいっぱいになりました」

 以来、兼高さんとカメラマン、そしてその助手のわずか3名での取材態勢が確立されていく。

 インターネットなど影もかたちもない時代、取材の第一歩、情報収集は居酒屋で。

 お酒で口が軽くなったころを見計らい、見どころや現地の抱える問題点を拾っていく。

「現地の庶民と付き合うのがいちばん早いんです。中流で“欲しい”とか“これに困っている”とかいうような人のほうが本音でいいます。ポジションがある人は気取るから、本当のことが出てこない」

 取材時は、車の助手席を自分の定位置と決め込んだ。珍しいものを見つけるとすかさずストップ、撮影を開始するのだ。

 番組で腰を痛めた兼高さんの代役を務めたこともある、友人で女優の草笛光子さん(83)が兼高さんのユーモアセンスあふれるエピソードを披露する。

「兼高さんが“今度、『世界の旅』の代役で貢ぎ物をお持ちして現地の王様にお会いしてちょうだい”と言うんです。(おいしそうな草笛さんの登場に)“もしもあちらの王様が、『ちょっと待て!』とおっしゃったら逃げ出せるよう、しっかりした生地でスラックスを作ってちょうだいね”と。行かないですんだので命拾いしましたけどね(笑)」

 名所旧跡のみならず、現地でしか手に入らない情報満載の『世界の旅』は日本人の海外への旅情をかき立て一躍、人気番組へ成長していった。

忘れえぬチャールズ皇太子、ケネディ大統領、そしてダリ

 さて、渡航制限があった時代に始まり、礼宮様と川嶋紀子さん(ともに当時)のご成婚がなった年まで、合計31年間放送という超長寿番組『世界の旅』では、現在だったらおそらく取材不可能なセレブたちもたびたび登場、番組に花を添えている。

「チャールズ皇太子は偉ぶらなくてなかなかの方でしたね。

 叔父のマウントバッテン卿がいろいろな国から高校生くらいの年代を集めて、お互いを知り合い平和をつくろうという国際学校をつくっているんです。わたくしがその学校に行ったら、ちょうど皇太子の車がお着きになって。自分でドアをさっと開けて、“校長のお加減はいかがですか?”と。校長はその日、風邪ぎみだったんです。感心しました。

 当日は、みぞれが降るような日だったんですが、それでも船で海に出ていきました。王族は強くなければいけないのでしょう。強く、男らしい方でした」

1962年10月には、ホワイトハウスでジョン・F・ケネディ米大統領と面談。この約1年後、ケネディは凶弾に倒れた

 先日帰国したキャロライン・ケネディ大使の父親、ジョン・F・ケネディ大統領にもお会いした。

「ケネディはいい男でしたね。男らしくて朗らかで、贅沢でなさそうで。キューバ危機(1962年10~11月に起こった全面核戦争直前に達した危機的状況のこと)直前で大変な時代だったんですが、おくびにもださない朗らかな顔で出てらっしゃいましたよ」

 スペインの画家、サルバドール・ダリは、噂どおりの奇人ぶりで兼高さんを歓迎した。

「ワインをついでくれたから飲むのかなと思ったら、わたくしのグラスに指を突っ込んで、それを舐められていました(笑)」

『世界の旅』ではさまざまな著名人にも取材を行った。1959年9月、画家サルバドール・ダリのスペイン・カダケスの自宅を訪問

 1586回の出会いを重ねた『世界の旅』も、平成2年(1990年)、惜しまれつつ終わりを告げることになる。

「その前の年に、ちょっとショックなことが続きましてね。『世界の旅』を後押ししてくださった作家やスポンサーの方たちが亡くなったんです。それでもうやめよう、と」

 とはいえ、兼高さんの多忙な毎日は一向に変わらない。

 番組放送中の昭和60年(1985年)、兵庫県淡路市の淡路ワールドパークONOKORO内にある『兼高かおる旅の資料館』に、番組の放送中に収集した世界各地の民芸品や資料を寄贈した。以来、事あるごとに訪れている。

 同館の清水浩嗣支配人(61)も、兼高さんのユーモアのセンスを称賛する1人だ。

「先生が収集した民芸品が面白いんです。アメリカのオハイオ州には“牛のフン投げ大会”があって、それの表彰盾があるんですが、金で塗装したフンが貼りつけてあるんですわ(笑)。

 全体をパッと見ると単なる民芸品という感じですけど、ひとつずつ見ていくと、ウイットがあって面白いんです」

 寄贈したもの以外にも、資料はまだ山のように手元に残り、その整理には今現在も追われている。

 情報には極力正確を期したいと、ナレーションで語る山の標高すらも改めて調べ直すという徹底ぶりだ。

「有名な地理の先生がいう言葉と、小説を書いている人とで高さが違う。どっちを使うべきかを調べるのに、1日じゃきかないときもあります」

 そして、こう続ける。

「仕事(世界の旅)もそうですが、好きだからできたんです。命令されていたら、きっとできなかったでしょうね」

まだまだ人生の旅は終わらない

 31年間の長きにわたり『世界の旅』を続け、さまざまな文化を見続けてきたこの人に今の日本はどう映るのか?

「日本って恵まれたすごくいい国なんですよ。ところが島国なものだから、それがわかっていないんです。ほかがよく見えて、自分のところのよさが見えていない。

 マナーにしろ文化にしろ、自分のところのよさをきちんと守っていかないと。1000年の昔から素晴らしい文学もあれば、文化もある。なのに世界でも数少ないそんな文化を、どんどんと壊しています。くだらない国にしちゃったら、もったいないですよ」

 前述の対談集で、『世界の旅』をはじめ、マダガスカルでの援助活動など、さまざまなことをともに語らった作家の曽野綾子氏は、対談での印象をこんなふうに言う。

「実はあのとき(対談で)初めてお目にかかりましたが、テレビでお見かけしたことがございますから、(対談は)たぶんうまくいくだろうと思っていました。

 それぞれ体験しているものは違いますけれども、外国に対する飽くなき興味というものがあります。その点だけでも大丈夫だろうと思いました」

曽野綾子氏との対談集『わたくしたちの旅のかたち』を上梓した

 おふたりに共通する、電気もなければ飲み水もままならない国々に平然と飛び込んでいくたくましさはどこから?

「わかりません。わたくしはできたというだけのことで。(ともにクリスチャン校出身だが)学校の教育でもないと思います。個人の個性の問題でしょうね。わたくしの場合は好奇心の強さだと思っておりますけど」

 一方、兼高さんのたくましさの秘密を、“肉食系女子にあり”と語るのは、前出の清水支配人だ。

「あのね、先生はお肉大好きで、完全に“肉食系”なんですわ(笑)。ですから、淡路島にお越しの折にはですね、いつも淡路牛のステーキを食べていただいております。

 三浦雄一郎さんがそうであるように、肉を昔から食べていらはる方は、パワーをお持ちなんですね」

 前出の友人・草笛さんは、ひとり暮らしを続ける友を案じつつ、こんな意外な一面を語る。

「よく食べるんですよ、びっくりするぐらい。でもそれは、1日3食きちっと食べる生活をしないからです。朝だって“食べてないわよ”っていう調子だから、自己管理ができていない!(笑)。

 私たちの年齢になりますと、夜中に何が起こるかわかりません。1人で寝ていて、病気などで電話にも出れないようじゃつらいですよね。友達としてそんなふうにはさせたくないし、私もなりたくない。だから電話が途絶えると、“病院に入っているのかも”と心配で心配で……。私、電話でいつも怒るんですよ。“なにやってんの! 自己管理をちゃんとしなくちゃダメじゃない!”って」

 とはいえ、仕事となると見事に切り替わる。

 『兼高かおる資料館』では、兼高さんの来訪があるとメディアからの取材依頼が殺到する。支えたりのエスコートが必要と思っても、ライトがつき、カメラが回り始めたとたん、シャキッとされると清水支配人。連日2時間以上にもわたり、立ちっぱなしで取材に対応されたときには、放送回数1586回、150か国訪問のガッツとプロ根性を垣間見たようで、感服のひと言だったと語っている。

来る2月29日の誕生日で89歳になる兼高さん。「わたくしの誕生日は4年に1回、だからまだ22歳ですのよ」と、いたずらっぽく笑った。撮影/佐藤靖彦

 さて兼高さんも、この2月末には89回目の誕生日を迎える。

「ひとり者ですからね。それで残っているものはお金にして、奨学金を、と。勉強したい人には勉強をさせたいの。それも勉強しておしまいでなく、役に立ててほしい。それには病院や健康関係と思って」

 兵庫県淡路島にある関西看護医療大学に『一般財団法人 兼高かおる基金』を設立、看護師を目指す若者たちに修学金を給付している。

「(独身なのは)『世界の旅』で青春をすべて使ってしまいましたから。でもね、“わが青春に悔いなし”です(笑)」

 友人の草笛さんは、

「普通だったら仕事をリタイアして、家で“おばあちゃん”しているような年齢ですけど、ふたりともそんなところは微塵もないですね。

 彼女は実は島を持っているんですけれど(『カオル・エネ』のこと。番組で訪れたマーシャル諸島共和国の大統領の兄からの贈り物)、そこに旅行できないかしら、と。80代のわれわれふたりが無人島に行って、なにをするのか──。

 私がテレビ局にそんな番組を見てみたいと言ったら、“いいですねえ! なんとかならないですか!?”と(笑)。そんな不思議な旅をしてみたいですけれど、『兼高かおる老老介護の旅』になってしまうかしら?(笑)」

 シニアレポーターとして、大活躍の日も近い!?

 『世界の旅』は終わったが、『兼高かおる人生の旅』はまだまだ終わらない──。