東日本大震災から6年、身元不明の遺骨と家族のように暮らしたお寺を訪ね歩いて……。遺体は発見された。しかし、6年たってもだれなのかわからない。いつ、わかるという保証もない。一方で、いまだ行方不明の家族や大切な人を探す被災者がいる。身元不明の遺骨を預かった寺を訪ねた。名前を取り戻すことができずにいる遺骨はいま──。

「悲しむのはここまで」

 岩手県陸前高田市。県総合防災室によると、東日本大震災による同市の死者は1556人、震災関連死46人、行方不明者204人(1月末現在、以下同)。県内の市町村では最も犠牲者が多い。

 山腹にある曹洞宗・普門寺の共同墓地には同市の身元不明の全遺骨11柱が眠る。熊谷光洋住職(65)は「早く家族のもとへ帰れるように」と毎日、供養している。

真っ白な本堂の祭壇は故郷・高田松原の海岸を再現している。白い砂浜、松林、極楽に向かう船=普門寺

「ただ、全員の身元判明は難しいだろうなという思いもある。家族全員が亡くなった1人かもしれない。あの日たまたま旅行で来ていた人かもしれない。部分遺骨で肩だけの人もいるし、頬だけの人もいます」(熊谷住職)

 同寺は震災直後から身元がわからない遺骨を預かってきた。多いときで約400柱あり、本堂の半分が骨箱で埋まったという。県警のDNA鑑定などで次々に身元が判明して家族に引き取られていった。しかし、年月の経過とともに個人特定は難しくなり、震災2年後の’13年2月、同寺が共同墓地の土地を提供し、残った14柱の骨箱を納めた。

 本堂裏手の墓地のいちばん高いところに共同墓地はあった。足元の高さの墓石は『米崎中 No.305』『矢作小 部分40』『大船渡の高田 部分7』などと名板に刻まれている。遺体安置所と検視のためにつけられた番号という。

「引き取り時に間違いが起きてはいけないので、そのままなんです。納骨するときに市の担当職員は“全員帰したかったなあ”と言いました。私は“そうだなあ”と答えました。なんでこの番号で……という思いは同じ。その職員は高校の1年後輩でよく寺に相談に来てくれたけど、その後、すぐ急死してしまった」

 命を削る仕事だった。

 引き取られた遺骨の墓石は名板が抜けている。

「“お父さん”と遺骨を抱きしめた若い娘さんがいました。お父さん、よかったね、と言いました。父親が娘に抱かれるってうれしいから」

 同寺では今夏、参道脇の石仏群『五百羅漢』が完成する見込み。すでに全国から供養のために送られてきた仏像が約1300体あり、合わせると1800体になる。

「これは行方不明者を含めた陸前高田市の犠牲者とほぼ同じ数です。亡くなった方が成仏し、遺族を見守るためにここに集まってきているように思えるんです」

 行方不明者の家族にとって、生きていてほしいという願いは断ち難い。漂流してフィリピンなどに辿り着き、記憶を失って暮らしているかもしれない、と考えてしまうという。

「一方で、不明者の家族や遺族は周囲を気にして地元で大笑いできないという。だからよく旅行に行く。楽しく過ごすのが何より。いつまでも家族に泣いていてほしいと思う仏様はいません。悲しむのはここまで。七回忌をその節目にしたい

「ひとつ、遺骨くれねが」

 北へ──。同県釜石市。震災の死者は888人、震災関連死105人、行方不明者152人。

 日蓮宗・仙寿院の芝崎惠應住職(60)は「お涙ちょうだいや遺族を傷つける取材であれば断る」と言った。

「お寺はいつも遺族とともにある。ネットには現実を知らない人の耐えがたい言葉があふれている。遺族に言わなければいいのに、“こんなことを書かれてどう思いますか”と心ない報道が聞く」

 いきなり、厳しい言葉を突きつけられて背筋が伸びた。

スチール棚に安置した身元不明遺骨に手を合わせる芝崎惠應住職=岩手県釜石市・仙寿院

「行政は働く場所さえあればいいと思っている。働くだけでは人間は無理。遊ぶ場所がないと。それが次の課題です」

 被災者が言いたくても言えないこと。言う気力もうせていること。それが芝崎住職の口からポンポンと飛び出た。

 震災当日、仙寿院は建物に576人の避難者を受け入れた。芝崎住職は震災4日後、遺体安置所に入り、どこの寺も来ていない状況を把握した。被災を免れた寺院を訪ね歩き、「一緒に交代交代しながら御回向(供養)しませんか」と呼びかけた。宗派を超えた『釜石仏教会』が立ち上がり、ボランティアで火葬場に出向いて読経する活動が始まった。

 身元不明の遺骨をすべて預かったのは仙寿院だった。

「廃校舎に安置されていた。寒くて寂しくてあんまりだと思った。寺に避難している人たちに“引き取りたいけど、どうでしょう”と聞きました」

 ひとりのおばあさんが言った。

オラたちと一緒だから来てもらったんせ(来てもらってください)」

 異論はなかった。

 しかし、遺骨を安置する場所がない。地元の事務用鋼製家具メーカーがスチール棚を破格値で組み立ててくれた。避難者は遺骨の担当を自発的に決め、毎日手を合わせる生活が始まった。

 震災から半年たった月命日の9月11日、80歳くらいの男性が訪ねてきた。

「和尚さん、身元がわかんない人の遺骨を預かっているのってここか?」

 ボアつきジャンパーに作業ズボン、黒い長靴。東北とはいえさすがに暑い季節。3月のままの格好をした被災者とわかった。男性は遺骨に手を合わせるとこう言った。

「いっぱいあんだから、ひとつ、これがオレのかあちゃんの骨だって、くれねが」

「いやいや、そういうわけにはいかないんだよ」

 奥さんを探していた。夫婦に子どもはなく、血縁がないのでDNA鑑定しようがないという。月命日の11日朝に欠かさず来るようになった。

「毎月来て同じことを聞くの。“ひとつ、遺骨くれねが”って。断るしかないんだけど、気持ちはよくわかるからつらかった」(芝崎住職)

 遺骨は引き取られて数が減っていった。三回忌の’13年3月11日、男性はやってきて「まだ(不明遺骨が)残ってるんだな」と手を合わせた。住職が、

「じいちゃん、また同じ答えだけどさ……」

 と言いかけたとき、骨箱の前に置いた小さな地蔵さまに目がとまった。北上市の女性が供養のためにと計400体送ってくれたものだった。

「じいちゃん、きょうはかあちゃんの骨渡すよ」

「おっ、くれんのか!」

 はい、と渡した地蔵さまを男性はまじまじと見つめると、「かあちゃん、ちっちゃくなったなあ」と持っているビニール袋に大事そうにしまった。

「和尚さん、どうもな」

「じいちゃん、怒らないんか」

「かあちゃんと一緒に帰れるんだもん。怒ることねえべ」

 それから男性はぱったり来なくなったという。

男性に1体譲った『お地蔵さま』を手にする芝崎住職。「あの人どうしているかな」とつぶやいた

 仙寿院には現在9柱の身元不明の遺骨がある。釜石市は’17年度中に高台の墓地公園に合葬墓地を整備する方針。別れのときが近づいている。

「娘はお水を取り替えてお菓子を供える。妻は毎朝ごはんの上げ下げ。お花をきれいにあげているのは私の仕事。おはよう、おやすみと挨拶して6年近く暮らしてきた。家族みたいなもんだからね」

 名前のない無縁仏は救われるのか。芝崎住職は即答した。

「遺骨の身元がわかるか、わからないかで、亡くなった方が救われるか、救われないかが決まることなどありません。遺骨がだれであっても、私たちはその人の魂を供養しているのです。遺骨に心があるわけではない。心は家族とともにあるんです

 再び張り詰めた空気をときほぐすように芝崎住職は、

「歌にもあるじゃない。そこに私はいませんって」

「私たちの大切な人じゃないですか」

 さらに北へ──。同県大槌町。震災の死者は803人、震災関連死51人、行方不明者423人。

 曹洞宗・吉祥寺の高橋英悟住職(44)は’14年に続く2度目の取材だ。当時、身元不明の遺骨20柱を預かっており、いずれは高台の海と川と町を見渡す場所に安置したいと話していた。その条件にかなう城山公園の高台に納骨堂が建立され、今年2月19日に納骨式が行われた。同町は被災3県の市町村で身元不明遺骨が最も多く、3寺院に分けて計70柱の遺骨を預かってきた。

吉祥寺の高橋英悟住職は「いい場所にできた」。町の中心部を見下ろす

「行方不明者のご家族が3つの寺をお参りする姿を見てきましたので、ひとつの場所で手を合わせることができるようになってよかったと思っています。納骨堂はとても素敵なつくりで、毎年3月11日午後2時46分になると、おひさまの光がガラス窓から差し込むんです」(高橋住職)

 高橋住職は、前出の芝崎住職が立ち上げた『釜石仏教会』で事務局長を務める。納骨堂の場所について粘り強く行政を説得したのは、高橋住職が所属する同会大槌支部だった。こだわったのには理由がある。

「私たち人間は、よくも悪くも忘れてしまう。津波がきたことさえ、ふだんは忘れられたように感じます。だからこそ海の様子が見えて、川の様子が見えて、町の様子がわかる場所でなければいけない。津波がきたら避難道路から納骨堂を目指すんです」

 立地の決定には紆余曲折があった。当初、同町は町有地の火葬場につくろうとした。町と仏教会で話し合いを進める中、いったんはこの場所に決まった。しかし、町長選・町議選を挟んだため、事業見直しで振り出しに。なぜこの場所でなければならないのか議会に出向いて説明を繰り返した。「命を守るためなんです」と訴えた。

 生き残るための場所にお骨があったら怖い。気持ちが悪い。そんな声もあった。

「私たちは“何を言っているんだ!”と怒りました。まだ名前は取り戻せていないけれど、私たちの大切な人じゃないですか。生きたくても生きられなかった命じゃないですか。何が気持ち悪いんですか。心を同じくする熱血行政マンも真剣に向き合ってくれました。熱意は伝わるんですね」

 前回’14年の取材直後、身元が判明した女性の遺骨があった。遺族が迎えに来てうれしそうに「お世話になりました」と挨拶してくれたという。

 同町では、骨箱のまま納骨堂に安置し、土に還す期限は決めていない。

「もっと技術が進歩して、ほかの遺骨の身元もわかるようになるかもしれませんよね」

 納骨式の日、高橋住職は一緒に暮らしてきた19柱の遺骨に、ひとつひとつ手を添えてこう話しかけた。

「津波を知らぬ未来の人々をお守りください」