天皇陛下と皇后美智子さま(82)の平成になってからの20回目の海外訪問について、「美智子さまは出発前に口唇ヘルペスの症状が出ましたが、2月28日からのベトナム・タイ訪問の7日間を、陛下をお支えしながら大過なく果たされました」と話すのは宮内庁担当記者。
両陛下は今回、ベトナムを親善訪問した後はタイに立ち寄り、昨年亡くなったプミポン国王の弔問をして過密日程をやり遂げられた。
《次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています》
昨年の8月8日に、そんな“譲位”をにじませる異例の「おことば」を陛下が発表されてから7か月。すでに「準備」と思われる動きも始まっている。
「陛下は、2月に開かれていた『冬季アジア札幌大会』を皇太子さまに、3月11日の東日本大震災の追悼式を秋篠宮さまに譲られました。退位に向けた準備という意味合いもあったのではないでしょうか」(前出・記者)
譲位に向けて、有識者会議が設置され国会でも議論が始まったが、陛下のおことばの“解釈”や“真意”については、さまざまな意見が出された。
なかでも、学習院の幼稚園から高校まで一緒に過ごした“ご学友”の明石元紹さん(84)の発言は話題に─。
「美智子を心配して譲位を訴えているように受けとられてしまうのは困る」
「明治以前には、譲位は何度もあったことで、びっくりする話ではない」
「僕のときだけではなくて、将来を含めて譲位ができるようにしてほしい」
など、親しい同級生でなければ聞くことのできない陛下の“肉声”が明らかになったのだ。
《天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したい……》
と8月に述べられた陛下の考えについて、他の“ご学友”たちは、どのような思いでいるのだろうか。
「国を思う象徴天皇としての責任感の強いお方」
青春時代の“等身大”の陛下を知る同級生たちに思い出とともに聞いた。
「陛下は御所から外国産ではなく国産の日産プレジデントに乗って、学習院に登校されているのが印象的でしたね。学生当時から穏やかなイメージでしたが、いつもオーラがおありでした」
と語るのは学習院大学政経学部政治学科で陛下と同級だった佐々木譲さん(84)。
佐々木さんは大学卒業後、川崎汽船に入社。定年退職後は、さいたま市の町おこしを目的としたNPO法人に関わり、演歌歌手・冠二郎さんの作詞を担当するなど活躍している。
「陛下はいつもお弁当でしたが、お持ちでないときは仲のいい何人かと一緒に食堂で昼食をとられていました。確か35円くらいのカレーライスがお好きだったようで、よく召し上がっていました」
陛下は大学2年生になる直前に、昭和天皇の名代として英国のエリザベス女王の戴冠式などに参列するために、7か月近く欧米諸国をご訪問。結果、必要な単位が取得できず「聴講生」扱いとなり、学習院大学には4年間在籍したが「卒業」することはできなかった。
佐々木さんが続ける。
「しかし、卒業式には陛下も出席して学校に対する感謝のお気持ちがこもった挨拶をして、『蛍の光』と校歌も一緒に歌われていましたよ」
陛下の譲位のご意向については次のように考えている。
「皇室典範を改めるのは至難だと思います。譲位を恒久的な制度にするのは遅くなっても熟考することが肝要なので、暫定的に今回は特措法で対応するのが望ましいと思います。
国民のことを考えていらっしゃるからこそでしょうが、同年代の私から見ても、あの公務の量ではお身体が本当に心配です。
一般人でしたら息抜きもできるでしょうが、国を思う象徴天皇としての責任感の強いお方なので、陛下はなかなかできないと思います」
「人間的生活をしたいというお考えに聞こえた」
そんな“息苦しさ”に耐えかねての意思表明だったとみるのは、学習院中・高等科時代に天皇陛下と同級で日独フォーラム会長の織田正雄さん(83)。
「天皇や皇太子は、特に個人的な自由が厳しく制限されていて、私は長年それを拝見してきました。昨年の12月、中・高等科時代に学習院にあった『清明寮』の同窓会がありました。会は2時間の予定で、陛下に声をかけさせていただいた当初は、いらっしゃるというお返事をいただきました」
織田さんが残念そうに振り返る。
「しかし、その後はそんなに長い時間はいられないということになり、直前に30分ということになって、実際は20分ほどのご参加でした。公務や次の約束があったのかもしれませんが、側近に“お時間です”と声をかけられるのが日常のようです」
陛下は長年、そのような境遇に不満をお持ちだったのではないかと織田さんはみる。
「私たちが学習院時代、学校外でスーツを着たのも、車の免許を取ったのも、電気シェーバーを使い始めたのも、同級生のなかでは陛下が最初だったと思います。どうやら側近のすすめでもあったようで、新しいものを取り入れる気風はありましたが、陛下はご自分の不自由さを嘆いておいででした」
陛下の2歳年下の弟・常陸宮さま(81)と比べても、“自分には自由がない”と、こぼされていたという。
「高3の修学旅行で、東北地方に旅をしたときでした。陛下がいらっしゃるということで、停車しない駅でも人々が集まりホームで旗をふるので、陛下はそのたびに私たちの席から離れて、窓から“皇族の顔”をして挨拶をされていました。旅をお楽しみになることは、とてもできないなと思いましたね」
織田さんは、陛下とプライベートで海や山に出かけたときも、やがて天皇となる方が受けざるをえない“制約”を目の当たりにしてきた。
「昨年8月のお気持ちは、そんな不自由な生活からそろそろ解放され、人間的生活をしたいというお考えのように聞こえました。その後の専門家などの意見を聞いていても“天皇はこうあるべき”という思いが強すぎ、それが陛下たちを束縛しているようにも感じました。退位についての現在の議論をみると、陛下の“本心”が完全に叶うのかどうか気になります」(織田さん)