養育里親よりも、まずは意識や法律について考えるべき
私は、セクシャルマイノリティに対して偏見は持っていませんが、同性カップルによる養育里親制度をこのまま進めていくことに対しては慎重派です。なぜなら、日本は法律や意識などの面でも、セクシャルマイノリティや同性カップルを受け入れるためのきちんとした環境が整っていないから。
法律で同性婚も認めていない状況で、いきなり里親というシステムだけ先走ってしまうのはいかがなものかと思ってしまうんですよね。
あるいは、セクシャルマイノリティへの意識という点でも日本は遅れています。セクシャルマイノリティを軽く見ているところがある。
芸能界でもオネエとかオカマとして活躍している人はいるけど、だからと言って日本の社会がセクシャルマイノリティへの理解が進んでいるとは思えなくて。つまり、いまだに私はそうした人たちが本質的なところで理解されているのではなく、好奇な目で見られて面白がられているに過ぎないんじゃないかと思ってしまうんです。だって本来、いわゆるオネエの喋り方ひとつとっても、そうしたセクシャルマイノリティの姿はごく一部なのであって、こちら側が求めたステレオタイプみたいなものでしょう。
法律も見直されない、セクシャルマイノリティへの間違ったイメージが残るなかで「とにかくマイノリティは受け入れなくてはいけない」という風潮だけが広がっていることに違和感があるんです。
虹色フラッグなどもそうです。虹色フラッグを掲げる前に、まずは冷静になって、マイノリティの受け入れに際し具体的にどのような問題が起きるかなど、制度の面から考える必要があると思うのね。そうしなければ、安易な受け入れはマイノリティ自身を苦しめる結果になってしまうこともありますから。
また同時にこれはセクシャルマイノリティに限らず、日本における学校やコミュニティでの外国人受け入れ姿勢にも言えることです。まだまだ沢山の課題が残っているマイノリティについて、その置かれている環境を本気で考えるならば、法律や意識といった本質的なところの改革を置き去りにしたまま、たとえば今回のように里親制度だけ進めることは順序として違うんじゃないかと思うんですよね。
養子そのものに対する違和感
さらに今回の“養育里親”に対する世間の捉え方を見ていると、異性同性問わず、養子制度そのものに対する議論も不可欠になってくるでしょう。
私は、母親がエジプトの孤児院に関するボランティア活動をしていたこともあって、10代のころから養子制度の存在について認識していました。もし自分が子どもを授かることのできない身体だった場合、養子をとるかどうかということを考えたりもしていました。
そんなあるとき、母親から孤児院にいる子どもたちの写真を見せてもらったんですね。するとそこには、幸せそうに笑っている子どもたちが写っていたんです。
このなかから一人選んで、果たしてその子を幸せにすることができるのかと自分に問うたとき、養子とするよりも、寄付など他の方法をとるべきかなと思ったんです。
子どもを持てなかったという自分の気持ちを埋めるために、子どもを預かるということはエゴに過ぎないんじゃないかと。
もちろん、養子をとる場合には、色々なケースがあります。家族内できょうだいなどの夫婦が事故死した場合や、虐待をされている子どもを助けなればならない場合など、必要に迫られてとる場合もありますよね。
今回の“養育里親”のケースも、どの様な状況で受け入れられたのかはわかりません。ただ一人の子どもを預かるということは、一人の人生を預かるということです。
セクシャルマイノリティの受け入れ環境が整っていない日本で、このカップルに預けられることを子ども自身がどれだけ理解し、どれだけ本人の意思で判断できたのか、こうした疑問も私には払拭できないところがあります。
そしてなにより今回の“養育里親”認定が「セクシャルマイノリティへの理解を広げるきっかけになる! どんどん進めるべきだ!」という声を聞くことに不安を感じます。セクシャルマイノリティへの理解という願望のために、預けられる子どもの人生を利用してはいけないと思うのです。
しかし、今回のケースは、多くの人びとにセクシャルマイノリティについて課題を投げかけたとは思います。一度冷静になって根本的なところから話し合い、本質的なところでマイノリティを理解し受け入れる社会を目指すべきなんじゃないかな。
<構成・文/岸沙織>