大学を卒業して、ちょうど5年目の決意だった。
東洋大学時代、箱根駅伝で“2代目・山の神”として数々の記録を塗り替えた柏原竜二選手が3月31日、所属する富士通陸上競技部を退部し、競技人生にピリオドを打った。
度重なるケガに泣かされ、その身体は満身創痍だった。
今月3日付の同社陸上部の公式ブログで本人は、
《福嶋監督をはじめ、これまで指導いただいた先生方から、「やめるには早いのではないか?」「治療やリハビリに専念してみてはどうか?」という言葉をいただきましたが、以前アキレス腱を長期間痛めた時に「もう一度大きな怪我をしたら競技人生に区切りをつける」と自分の中で決めていたこと、故障をしてから治療やリハビリに専念してきましたが回復する見込みがないことから、このような報告をさせていただくこととなりました》
と伝えている。
同社広報によれば、引退を考え始めたのは昨年11月。レース中に腰を痛め途中棄権し、今年1月には合宿中に右アキレス腱を故障し、引退の決断に至ったという。
柏原選手の陸上競技人生は、ふるさとの福島県いわき市でスタートした。6人きょうだいで4人の兄と妹が1人。
近隣の70代の女性は、
「みんな本当に素直でいい子ばっかりで、お母さんにどうやったらあんないい子たちが育つのって聞いたら“いやいや、私は何もしてないんですよ”って謙遜されてね。竜二くんは本当に静かな子でね。双子のお兄ちゃんが活発な子だったから、余計にいるかいないかわからない感じでしたよ。でも小学校に向かう坂をよく走っていたから、それが“山の神”といわれる基礎を作ったんじゃないかしら」
と懐かしそうに振り返る。
小学校時代、柏原少年は野球をやっていた。当時の指導者の男性(80代)は、
「竜二は球技はからっきし。足は速かった気もするけどね」
と目を細めた。
今でも鮮明に覚えている息子の言葉
中学生になった竜二少年が告げたことを、母親の次枝さんは今も鮮明に覚えている。
「“俺は球技に向かん。だから陸上をやる”って始めました」
中学時代も高校時代も、目立った成績を残したわけではなかった。だが、大学指導者の目は、いわき市の無名の才能を見逃さなかった。
東洋大学のスカウトと柏原選手が、JR内郷駅前の喫茶店で話している姿を、マスターが覚えていた。
「最初は柏原くんひとりだったの。うつむき加減で静かな感じの子だったけど、芯がしっかりしてちゃんとしてるなって思いました。2回目は母親も一緒に話をしてました」
柏原選手を見いだしたのは、東洋大の指導者の佐藤尚コーチ、酒井俊幸監督だった。
「高校(佐藤修一先生)や大学の先生方には本当に感謝しています」と頭を下げる母親は、大学進学当時のことを次のように振り返る。
「うちの子はみな、そうなんですが、大きく間違ったことがなければ、特に親が口出しすることはないんです。陸上をやることも、大学に進学することも、すべて本人に任せてきました。うちは経済的な余裕もないですから、本当なら高校を出たら働いてもらおうと思っていたくらいです」
大学で柏原選手の才能は一気に開花。1年生で出場した第85回箱根駅伝で、その名を全国にとどろかせた。
往路5区の山登り。トップの早稲田大学とは約5分差の9位で襷を受け取ると、目を見張るような快進撃。前を走る選手を全員抜き去る区間新で往路優勝を飾ったのだ。
その雄姿を、地元の寿司店に集まって応援する一団に、柏原選手の父親の姿もあった。
店の主人が明かす。
「小さいころから親父さんに連れられて来てね。あんまり話す子ではなかったけど、なんでもよく食べる子だったよ。今年も勝つだろうなんて話すと、親父さんは“勝負事だから終わってみるまでわからん”って心配していてね。5区を走って優勝したときは、みんなでバンザイしたもんだよ。親父さんもうれしそうに竜二に電話してね」
スポットライトを浴びるランナーに成長したが、その裏で苦労もあった。
地元のみんなが感謝の言葉を
柏原選手は、陸上部のブログに、こうもつづっている。
《学生時代は人と接するのが怖くて部屋に籠って悩んだ時もありました。実家に帰り何も聞かずに支えてくれた家族や高校の恩師、福島県で陸上競技を指導されている先生方、そして大学に戻った時に何も言わずに迎えてくれた仲間がいたからこそ今まで挫けずに競技を続けられたと思っています》
地元の店には、柏原選手のサイン入りの写真が飾られ、帰省のたびに前出の寿司店には「おじさんのとこに来ると寿司が食べられるから」と顔を出していたという。
「ただ、引退するまで悩んでるなんてわからなかったなぁ。もったいないって思いもあるけど、ケガがあったらしょうがない。よく頑張ったなと言ってあげたい」と主人。
前出の喫茶店マスターも、
「いわきは炭鉱の町だったから、閉山してから何も産業がない寂しい町でね。そこに柏原くんが有名になって、パーッと明るい話題をもってきてくれた。いままで本当にありがとうって言ってあげたい」
みな、感謝を口にする。
2010年と'12年には、いわき市市民栄誉賞を2度も受賞し、地元が誇る輝かしい選手になったが、卒業後の成績は思うようには伸びなかった。
社会人の精鋭が集うニューイヤー駅伝では区間賞を取ることはなく、初のフルマラソンでは7位。リオ五輪代表最終選考会を兼ねたびわ湖毎日マラソンでは52位と惨敗。それでも、「(弱音を吐くことは)まったくありませんでした。昔から家では、陸上の話はしませんでしたね。ゲームやアニメが好きで、今も昔もまったく変わっていません」と母親の次枝さん。
“山の神”と注目を浴び続けていたころは「別の世界に行っちゃうのかなって思いました」と母親ならではの寂しい思いを感じたが、今は改めて「お疲れさま」と言葉をかけたいという。そして、
「親以上に息子を支えてくれた周りの人に感謝しかありません。親として竜二にできる限りのことはしてきたつもりですが、全然足りていなかったように感じています」
と寂しげな表情を見せた。
富士通陸上部では柏原選手を含め5人の選手が年度末に引退し、翌4月1日付で8人の新戦力が加入した。襷は受け継がれる。