4月10日に引退を発表した浅田真央。名古屋市中区大須には、浅田が小学校中学年から中学卒業まで通い続けた名古屋スポーツセンターがある。
同センターの堤孝弘さんは引退会見を見て、
「大人になったなぁと思いました。落ち着いて話せるようになったんだな、と(笑)」
夕方、「こんにちはー!」と、大きな声で入ってくる子どものひとりが、浅田真央だった。どこにでもいる天真爛漫な少女だが、当時から同世代の子と違う部分があった。
「1時間~1時間半に1度、10分ほど整氷係が入ります。その間は、食事や休憩する子がほとんどです」(堤さん)
でも、浅田は違った。母・匡子さんや、姉の舞とともに、ひたすらストレッチをした。スケート靴をはいたまま母に補助してもらい、脚を上げたり、腕を伸ばしたりと時間を有効に使っていたのだ。
「個人スポーツは自分との戦い。頑張ったぶん力がつきます。お母さんはそれを教えていたんでしょう」(堤さん)
高校に進学すると
中京大学附属中京高等学校に進学後は、練習も大学併設の『オーロラリンク』へと移った。
スケートの練習も忙しくなり、昼間は貸し切りで3時間、放課後はスケート部での練習が2時間ほどに。そのうえ、ジムでトレーニングを行っていたため、授業を受けられないこともあった。中京大学附属中京高等学校のスケート部部長・渡辺伸雄先生は、そんな彼女の指導に当たったひとり。
「学業面でのバックアップが私たちの仕事。各教科で担当教師を決め、リンクサイドで“出張授業”を行いました。これから世界へ羽ばたいていく人だからこそ、日本のことを知らなくては、と教えた記憶があります」(渡辺先生)
先生の担当は日本史。戦国時代に織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの名だたる武将を輩出した県だからこそ、興味を持ってほしかった。
「3人の中では信長が好きかな」と、その熱意に浅田も笑った。海外に行く際は課題を与えた。
「どれだけ忙しくても、期日までに提出したのはさすが彼女です」(渡辺先生)
大須のリンクの近くにある『朝日軒』は、大正10年創業の煎餅の老舗。土日祝限定販売の『やさいかすてら』を目当てにフラッと彼女は現れる。
「野菜の形をしたカステラ。本人が来られないときは、舞ちゃんがお土産に買っていかれます」(朝日軒店員)
練習前にこのお菓子を買って食べていたという浅田。
「これを食べると、ジャンプがうまくいくんだぁ」
と漏らしたこともあった。
「それから、小さい子たちが“食べたら、真央ちゃんみたいにスケートが上手になる!”って言いながら食べてくれるんです」(前出・店員)
サラリーマンに混じってチャーハンをかき込む姿
リンクのすぐそばの『互楽亭』へ初めて来たときは、匡子さんと舞と3人だった。やがてひとりでも足を運ぶようになり、女子中学生が黙々とチャーハンをかき込む姿は、サラリーマンの多い店内でちょっぴり浮いていた。
「身体は細いのにペロッとキレイに食べるんですよ。しかも、スピードも早い(笑)。気持ちよかったですね」
店主の井上一夫さんは、懐かしそうに目を細める。彼女がチャーハンばかり頼むので、いつしか『真央ちゃんチャーハン』という名前に変わった。東京へ出てからも、この店への愛は変わらない。
「名古屋での収録の際“チャーハンが食べたい”と言ってくれたようで、スタッフさんが取りに来ました。うれしい反面、本人に会えずに寂しいなと思っていたら、あとで、真央ちゃんが来たんですよ。“ちゃんとお礼を伝えたくて”って。律義なんです」(井上さん)
そして、引退を発表したその日。大会のたびに戦勝祈願をしていた大須観音にお礼参りに訪れた彼女は、互楽亭へも足を運んでいたというのだ。
「お客さんから“真央ちゃんが店をのぞいてたよ”と聞いたんです。うちはちょうど発表した日が定休。会いたかったから、残念でした」(井上さん)
「あそこは行きました?」「家で作るときは……」などと、常連客と楽しく話していたのは、大須のかき氷店『あんどりゅ。』。
気さくに話しかけるので、本人と気づかれないことも多い。1度来店すると、2つのかき氷をペロリと平らげる。店員の金森春菜さんいわく、最近は、ずんだがお気に入り。
「生クリームののったかき氷をよく食べていて、多いときは1か月に3回以上、来たこともあります」(金森さん)
高校・大学時代に通ったうなぎ店『今勝』では、備長炭で焼いた天然うなぎをペロリ。ときには、コーチのタチアナ・タラソワを連れて訪れた。
「店名から選手もゲン担ぎで通っています。五輪のときは店に横断幕を張り、みんなで応援していました」(常連客)
彼女を支えた人たちの思い出には、当時の“浅田真央”が笑顔で刻まれていた─。