「みなさん、こんにちは。生まれも育ちも福島のなすびです」
さいたま市の市庁舎に隣接する会館の中ホール。ここで、福島県の避難区域から埼玉県に避難している人を対象に、故郷に帰還するための相談会が行われていた。その基調講演でマイクを握ったのは、長い顔とヒゲが特徴のタレントで俳優のなすび(41)だ。
「実家があるのは福島市ですが、母方の実家が会津、父方の実家がいわきなんです。だから、僕は浜通り、中通り、会津ぜんぶの地域にゆかりのある、いわば福島のハイブリッド(笑)。福島のどこに行ってもこちらがふるさとと言えるんですね。僕は20年近く前に『進ぬ!電波少年』という番組で『懸賞生活』という企画に出演しました。覚えている方いらっしゃいますか?」
会場にいた30名ほどの参加者の大半が「知ってる、知ってる」と答える。
「当時、あの番組は深夜なのに30%を超える視聴率でした。ありがたいことなんですが、僕は裸にされて毎日ただただ懸賞のハガキを書いていて、みなさんが見ていることさえ知らなかったんですね。あの番組は苦労の連続でしたが、今になって役に立ってるなと思うこともあります。
僕は去年、エベレスト登頂に成功しました。これは3回失敗してからの4度目の挑戦でした。なぜ、なすびはエベレストに登ったのか、とよく言われます。僕はエベレストどころか、福島の磐梯山も吾妻山も安達太良山も登ったことのない山とはまったく縁遠い生活をしていました……」
20人の中から”もっとも運のいい人”に選ばれて
『進ぬ!電波少年』とは「アポなし取材」や「猿岩石」や「ドロンズ」のヒッチハイクで注目を集めた『進め!電波少年』の後継番組として'98年から4年間放映された日本テレビ制作のバラエティー番組。
その番組の第1弾の企画が「懸賞生活」。20人ほどの若手芸人がクジを引き「当たり」を引いたのが当時、大学4年だったなすびこと、浜津智明(本名)だったのだ。
なすび自身が当時を語る。
「僕は喜劇俳優を目指していて、20歳のころからいろいろオーディションを受けていたんです。でもなかなか道は開けなかった。そこで、尊敬する渥美清さんが若いころストリップ劇場でお笑いを演じていたという話を思い出し、当時の知り合いとコンビを組んでお笑いをやり始めました。お笑いライブのオーディションを受けてエキストラでテレビに出たりしてたんですが、1年ちょっとで解散。これからどうしようかなと思ってたとき、たまたま受けたオーディションが『懸賞生活』でした」
クジは、20人の中でもっとも運のいい人を選ぶためのものだった。その場でなすびはヘッドホンと目隠しをさせられて車に誘導され数時間、都内を走り回った後、あるアパートの一室に到着。目隠しをはずされて言った第一声は「これ、なんですか?」だった。すると、なすびの手を引いてきた日本テレビの通称「Tプロデューサー」が「実は懸賞で当たったものだけで生活する企画をやってもらいます。やりますか? やりませんか?」と尋ねた。
「懸賞生活なんて、できるわけないと思いました。でも、とりあえず続いても2〜3週間か長くても1か月か3か月くらいで“こんなことできませんでした”となって終わるだろうと思ったんですね。でもチャンスはチャンスだから“やります”と答えたんです」
伝説の番組『電波少年』で1年以上続いた懸賞生活
すると、T氏は「じゃ、脱いで」「え?」「まあ、裸一貫からのスタートになるから。まあ、この企画が面白くなるかどうかはわからないし、とりあえず放送はしないから」
そう言われ、なすびは、しぶしぶ全裸に。こうして始まった「懸賞生活」。手渡されたのは、大量のハガキと筆記用具と乾パンだけ。定点カメラがセットされ、ビデオは自分で録画するように言われた。そして発売された雑誌が毎日、届けられる。
ただただ雑誌の懸賞広告を見て、応募ハガキをせっせと書き乾パンをかじる日々。1日の終わりには日記をつけることも義務づけられていた。外界との接触はおろか家族に連絡すらできない。
「あとで親から聞いた話では“今、事情があって息子さんを預かっています。その事情はお話しできないんですが”という電話がかかってきたというんですね。まるで誘拐犯(笑)。そして“何月何日の『電波少年』という番組を見れば息子さんの状況がわかります”と言われたらしい」
番組は深夜にもかかわらず高視聴率を叩き出し、学校では「昨日のなすび見た?」という会話が当たり前のように交わされた。
テレビの中のなすびは、髪の毛もヒゲも伸び放題、時の流れをリアルに伝えていた。
「懸賞生活」は、'98年の1月15日から開始、年末には獲得した賞品総額が100万円に達した。そこで終了かと思いきや、目隠しをされ、韓国に連れて行かれ、再び「懸賞生活 in Korea」が始まる。
3か月後、目標金額の飛行機料金額を達成し、無事帰国が許され、なすびは1年3か月ぶりに福島の実家に帰った。
「懸賞生活といいながら“人間はどれだけ孤独に耐えられるか”という企画だったんですね。のちに本で読んだら、中世のヨーロッパには死刑よりも重い刑があって、それは罪人を狭い部屋に閉じ込めて単純作業を繰り返させる、それで人間は自然に精神がおかしくなる、そういう刑なんですね。まあ、僕はそんな刑罰をやらされてたんですよ」
いじめられっ子がコンプレックスからお笑いを目指す
なすびの父親は警察官だった。そのため転勤も多く、何度も転校を余儀なくされた。
「僕はいじめられっ子だったんです。子どものころから顔が長かったから。そのうえ、小学校も3回かわっていたので友達もできなかった」
そんな少年の楽しみは、テレビのお笑い番組。中でもドリフターズの『8時だョ!全員集合』が大好きだった。
「試しに学校で、顔を使ってバカなことをやってみたんです。そしたら、みんなが笑ってくれた。そしてちょっとずついじめが減って友達が増えていきました。転校のたびにそういうことの繰り返しでした。そこで気づいたんです。人を笑わせたり、楽しませたりすることは周りを幸せにできるし、最終的には自分も幸せになれる─そんなことを子ども心に思ってたんですね」
福島東高校の卓球部でなすびとダブルスを組んでいた安斎淳さんは、高校時代のなすびは、まじめだったと言う。
「はまっちゃん(なすび)は、中学時代は別の中学でしたが、顔がインパクトあったんで覚えてた(笑)。高校で一緒になってすぐ仲よくなりました。本当にまじめで、部活でみんなが好きな女の子の話なんかしてもまったく乗ってこない。成績も優秀で最初は考古学者になりたい、なんて言ってましたが、だんだんお笑いや喜劇に興味を持っていったようですね。それでも、『電波少年』に出たときは驚きましたよ。ずっと見てましたけど、“あのまじめなはまっちゃんが”と思ってました」
自殺を考えたほどツライ日々を笑いに変えられて
『電波少年』が終わり、普通の生活に戻ったなすびだったが、街を歩いていると、「あ、なすびだ!」「ホントだ! なすびだ」と、みんな自分を指さしては口を押さえて笑う。
「僕はまた、日テレが企んだ番組だと思いました。指さしている人たちも仕込んだサクラなんじゃないかとね。でも、それが1週間たっても3か月たっても変わらなかったので、これは何か大変なことが起きてしまったんだと理解した」
「懸賞生活」終了後は、いろいろなバラエティー番組やドラマへの出演などが相次いだが、なすびにとってはしっくりこないものだった。
「テレビ業界でも世間にしても僕に求めるイメージと実際の僕とがかけ離れていることに気づいたんです。僕は本当のことを言うと、ハガキを書きながら何度も自殺を考えたくらい本当につらかった。僕が人間って怖いなと思ったのは、僕の過酷なあの生活を、世の中の人たちは笑って見ていたということ。もちろんバラエティー番組だから、テロップもついて、効果音も入れられて、楽しげに見えてしまうんでしょう。潜在的な恐怖を感じました。それも洗脳に近いですよね。笑えない状況なのに笑ってしまう、という」
世の中には自分の虚像のほうが定着してしまっていた。そこで彼は、自分のやりたいことを見つめ直してみた。
「よくよく考えてみたら目指していたのは喜劇役者だった。それが本当に僕がやりたいことだったと、いろんな失敗を繰り返しながら思っていきました。そして活動の場を舞台に移すようになったのです」
ふるさとの福島に恩返しがしたい
なすびは、'05年から'10年の5年間、福島県内のローカルテレビ局で、土曜夕方の30分の旅番組のレポーターを務めた。
「福島の各市町村を全部、回りました。そこで、福島県内のみなさんに本当によくしてもらった。そのうちに福島出身という自覚が生まれて、何か福島に恩返ししたいなと思うようになりました」
そして'11年3月11日。東日本大震災、そして福島第一原発の事故が発生する。
「福島に恩返ししたいと思っていたのに、何ひとつできなかった。それが本当に情けなくて悔しくて。自分はなんて無力なんだろうと思いました」
なすびは、その年の4月の終わりに、まず父方の実家のあるいわき市を訪ねてみた。
「その風景は、僕が記憶していたものとはまったく違うものでした。一面瓦礫の山で。僕ひとりじゃとてもできることはないかなと思ったんですが、たまたま以前番組で訪ねた食堂を見つけた。働いていたおばさんたちは無事でしたが、被害はひどかった」
なすびの姿を見つけて駆け寄ったおばさんは、彼の手を握りしめ、「なすびちゃん、来てくれたんだ。ありがとうね。でも、ごめんね。なすびちゃんと撮った写真もサインもみんな流されちゃった」と涙を流しながら言ったのだった。
「そのとき思ったんです。僕でもできることはあるかもしれない。福島出身者として、とにかく被災されたみなさんと触れ合うことじゃないか、と思いました」
それからなすびは、復興物産展などに勝手に駆けつけ、販売を応援した。
「電波少年を見ていた人が“あ、なすびだ”と足を止めてくれるんです。写真を撮ったりして、ついでに何か買っていこうと、微力ですが売り上げに貢献できたんですね。それから、客寄せパンダでもなんでもいい。福島の旗を振っていこうと決めたんです」
「エベレスト登頂」というインパクト
震災の年の8月。なすびは、四国が舞台の映画に出演したことが縁で知己を得た四国の人たちの「四国八十八ヶ所巡礼の旅をやってみませんか?」という発案を実行する。
「17日間かけて歩きました。真夏の過酷な環境でもしっかり歩けたんです。そのとき同行の人から“あなたの歩き方は山歩きに向いている”と言われたんですね。普通の人が5〜6時間かかるところを僕は2〜3時間で歩けました」
震災・原発事故から時間がたつにつれて物産展も少なくなり、何か風化を食い止めるための旗印になる方法はないかと、なすびは模索した。
「福島に直接ではなく、間接的に何か貢献できないか考え始めました。そこで、考えた末にたどりついたのがエベレスト登頂だったんです」
「中学・高校と卓球部で、山登りの経験なんてまったくない僕がいきなりエベレスト登頂を果たしたら、そりゃインパクトはある。不可能かもしれないけど、奇跡は起こせるかもしれない。もし成功できたら、福島の復興・復旧、新しい挑戦へのきっかけ作りになるかもしれないと思えたんです」
そこで彼は、エベレスト登山に詳しい国際山岳ガイドの近藤謙司さんに相談してみた。近藤さんが言う。
「'12年に、なすびさんから『エベレストに登りたい』と電話をいただいたんです。なぜ登りたいのかと聞くと“福島を元気にさせたい”と言う。そりゃ、無理だなぁと思いましたよ。素人が簡単に登れるものではないし、下手したら売名行為と思われちゃう。そこで僕も考えました。登山家のようにではなく、シェルパ(現地のガイド)やポーターと同じように荷物を背負って、下から歩いて登るのだったら、それはアリかもしれない、と」
通常のエベレスト登頂では、カトマンズから飛行機で麓まで向かい、そこから頂上を目指す。それを、車で行けるところまで到達してから徒歩で麓までたどりつくのだ。通常、その行程だけで1週間かかる。
同じ年の秋、ヒマラヤ山脈のマナスルでの訓練に挑戦する。そこで、近藤さんはなすびの「本気」を見た。
「高度順応もできていて、やる気にしても“本物だな”と思わせました。これは本腰を入れて取り組もうと、帰国してからは冬の谷川岳や八ヶ岳で訓練を積んでもらいました」
大きな借金を抱えてエベレストへ
エベレストに挑戦するのに必要なのは訓練だけではない。莫大な資金も必要である。
入山費用として200万〜300万円をネパール政府に支払う必要がある。旅費、経費、さらにシェルパ、ポーターなど諸々含めると1000万円はかかる。なすびは、そのための資金提供を求め、いろんなところに働きかけた。
そして、自分でも大きな借金を抱えて、エベレスト登頂に挑んだのだ
'13年春。いよいよエベレスト登頂開始。なすびは通常1週間かかる麓までの行程を3日でこなした。それも90リットルのザックを背負ってである。
初挑戦ながら最終アタック地点まで到達。そして山頂まであと100メートル、8700メートルの南峰までたどりついたところで、問題が発覚する。
「登っていくスピードが足りなかったために、酸素がもたないとわかった。6時間以内に下山するしかない。そこで、なすびさんに“今回はあきらめましょう。必ず生きて帰ることが、あなたの使命です”と伝えたんです」と近藤さん。
なすびはその言葉に従った。ベースキャンプに戻ったなすびは号泣するほかなかった。
そして、忸怩たる思いを抱えつつ帰国したのだった。
帰国後は、「2013ふくしまディスティネーションキャンペーン」の応援団長としての活動を始めた。「ふくしま」の文字が入った法被を着て日本中を飛び回った。そんな毎日を送りながらも、再チャレンジを決意する。今回はクラウドファンディングで支援金を募ることにした。インターネット上にサイトを立ち上げて“みなさん、僕の夢に投資してください”と呼びかけた。
複雑な思いを抱いていた”T氏”から救いの手が
このとき、なすびを助けた意外な人物がいた。あの『電波少年』のT氏だった。
なすびは当時を振り返る。
「Tさんは、こんなことを言いました。“最初はエベレスト登頂を目指すことがなぜ福島のためになるのか、理解できなかったけど、なすび君が懸賞生活で1枚1枚ハガキを書いて当選賞品100万円を目指してやってきた地道な努力と、エベレストの頂上目指して一歩また一歩踏み出していくこと、それは何かリンクするものがあるかもしれない”と言ってくれたんです」
そして、「なすびがこんな活動をやってます」という応援する番組を「ニコ生」でやってくれたのだ。そのおかげもあって最終日の24時間で200万円以上の支援が集まり、目標額の600万円を大きく超える支援金となった。
「Tさんのほうから手を差しのべてくれたのが、うれしかったですね。“過去の電波少年で悪いことをしたな。若い芸人にいろんな無茶をさせてしまったことを今は悔いてる”ともおっしゃってました。“あのころの自分は面白い番組を作る、視聴率を取りにいく、そこに特化してしまっていて、人として、もしかしたらおかしなことになっていたかも。今は贖罪の思いすらある”とも」
山の神が「来るな」というのか
'14年4月。なすびの2回目のエベレスト挑戦。しかし、氷河の崩落事故が発生する。それはヒマラヤ登山史上、最悪規模の崩落だった。そしてネパール政府から登山中止が言い渡され、ベースキャンプで2度目の挑戦を断念することになった。近藤さんが言う。
「ベースキャンプで登山中止を発表したら、なすびさんは泣き崩れて、3日間テントから出てきませんでした。そして、僕らより2、3日後に下山したようです。よほどショックだったんでしょうね」
そして'15年4月。多くの人々の応援のもと「3度目の正直」という思いを胸に再々出発。これはネパール政府が去年、登山中止を決めたので今年は入山費用を繰り越してもいいと発表したこともあって実現したものだ。しかし、3度目の挑戦を目前に、思いもかけない事態に直面する。
4月25日、現地時間11時56分。ネパール大地震発生。それは恐怖の体験だった。
「僕らはベースキャンプにいたのですが、“逃げろ!”の声でテント群の一角にあったくぼみに逃げ込みました。そこにものすごい爆風が襲ってきた。近藤さんが“口をおさえろ!”と叫んでいました。あとで聞いたのですが、雪崩に襲われて口から凍った空気が入ると肺が凍って死んでしまうんです。いま思うとあのときの一瞬の判断で生き残れたんだと思います。幸い僕が入っていた登山隊には人的被害はなかったのですが、テントはめちゃくちゃだった」
ネパールでは死者2700人以上、多くの家屋や寺院が損壊。ネパール史上、最悪規模の災害となった。ベースキャンプでも登山者など19人が死亡、150人が負傷。'15年のエベレスト登山は再び中止となった。しかし、このときのなすびは、これまでとは違っていたと近藤さんは言う。
「思いもよらない地震でしたが、なすびさんは何をすべきかわかっていました。ケガをした人の救助、物資が吹き飛んだベースキャンプの復旧のために積極的に動き回っていましたね。逞しかったですね。人間的にすごく成長していると感じました」
下山してからもエベレスト街道にある宿に宿泊しながら、被災地の状況をSNSを使って情報発信した。
「東日本大震災で、ネパールは被災地にいろんな支援をしてくださっていた、というのを聞いていたので“じゃあ、僕も現地に残って何かできることをしよう”と被災地に宿泊し、義援金の一助にしてもらおうと考えたんです」
それにしても、2度までも登山中止の事態に遭遇するとなると奇跡的でさえある。
「さすがに、これは山の神様が“来るな”と言ってるのかなと思いました」
「なすび、あきらめるな」
帰国したなすびは、「みちのく潮風トレイル」という被災した東北の4県の沿岸部を歩くイベントに参加する。4か月にわたり900kmを徒歩でたどったのだ。
「東北の太平洋沿岸部のみなさんとの交流を通じて、僕のエベレスト挑戦が想像以上に浸透していたことを知りました。福島だけでなく他の県もそうでした」
「エベレスト応援してるよ」「なすび、あきらめるな」という声援に勇気づけられ、なすびは4度目のチャレンジを決意する。そして'16年5月16日。ベースキャンプを出発し最終アタック開始。6500メートル地点のキャンプ2に到着。17日、7000メートル地点のキャンプ3に到着。ここから20時間くらいかけ1000メートル上のキャンプ4を目指すのだ。
18日夜、山頂アタックを開始。夜が明けると目前にエベレストの頂上が見えた。
5月19日現地時間正午過ぎ。世界最高峰エベレスト8848メートル登頂に成功する。なすびは自撮りでビデオを回し、カメラに向かって語りかけた。
「エベレスト山頂です。なすびです。福島のみなさん、やりました! 福島に元気と勇気、夢と希望を! 紆余曲折、つらい時もありました。失敗の連続でした。でも、人間やればできるんです。福島は、東北は絶対復興します。僕がエベレストに登れたんです。奇跡は絶対に起こせます。東北のみなさん、これからも一緒に頑張っていきましょう。以上、エベレスト山頂から、なすびでした」
本来、頂上で酸素マスクをはずしてはいけないのだが、なすびは頂上から何としても言葉を送りたかったのだ。
「売名」という非難を被災地の方たちが否定してくれた
「最初にエベレスト登頂を目指したい、と言ったら“売名行為だ”とさんざん非難されました。僕がいくら“これは故郷を思ってのことなんです。僕は失うものはないけど、守りたいものがある。それが福島なんです。それを有言実行するための形なんです”と言ってもなかなか信じてもらえなかった。それは過去の電波少年のイメージのせいもあるでしょう。絶対ふざけているんだろう、とね。でも、地道に活動してきたことで、被災地のみなさんが“あれは売名行為なんかじゃない”と火消しをしてくれた。“知らないかもしれないけど、なすび君は本当に福島のために懸命にやってくれてます。本当のことを知ってほしい”と声を上げてくれた」
なすびは、懸賞生活の虚像と長年闘ってきた。しかし、今では懸賞生活があったから現在の自分があると言う。
「20年近くたった今、街を歩いていても“あ、なすびさん”と声をかけられる。これは奇跡じゃないかなと思う。テレビって忘れちゃうじゃないですか。それがみなさん鮮明に僕のことを覚えている。最初は重い十字架を背負ったもんだな、と思ってましたが、最近は懸賞生活があってよかったと改めて思えるようになりました。え? もう1度、懸賞生活やれと言われたら? そしたら僕はエベレストに100回登ります。あれだけは勘弁してください(笑)」
取材・文/小泉カツミ