なぜすぐにお蔵入りになってしまうのか……。
連日報道される、芸能人による薬物や不倫などの不祥事。同じ芸能人として残念な気持ちになります。
だけど、それ以上に残念なのが、問題を起こした芸能人が活動を自粛するだけでなく、その人が出演する番組やドラマが放送中止に追い込まれたり、チケットを購入するかどうか、つまり観たいかどうかの選択肢が与えられている映画までもがお蔵入りになってしまう風潮です。
私の記憶では、かつて映画はそのまま上映されていたし、テレビ番組も“これは何月何日に収録されたものです”とテロップを流すなどの再編集はするものの、その程度の対応に留めていたと思うんですね。
実際、薬物で逮捕された大物映画俳優の作品は、いまもテレビで紹介されることがありますし、同じく薬物で逮捕された有名アーティストの作品も耳にすることがあります。
それがなぜ、今回のケースのように、すぐにお蔵入りになってしまう風潮、言いかえれば、他のキャストやスタッフの努力が水の泡になってしまうような事態、作品を観たいと思う人の権利が守られることのない風潮に変わってしまったのか。
その理由としては、ネットワーク社会において、たとえマイノリティーであったとしても、クレーマーの声が届きやすくなったことがあげられると思います。そして、イメージを重視するスポンサーはこれを恐れている。
また作品を放送すべきではないという方々の意見には、「制裁が必要」「罪を犯した人間にギャランティーを発生させてはいけない」、あるいは単純に「不快だから」といったものがあります。
制作側は、スポンサーやこうした世間の声を恐れ、事務所側はその申し訳なさから中止の判断をしているんじゃないかなと。
作品に罪はない
だけど私は“作品に罪はない”と思うんです。
不祥事を起こした人間は、もしそれが刑事事件に触れるのであれば、それなりの裁きを受けるわけですし、社会的制裁も十分に受けるわけです。中止によって発生する損害を被ることが、果たして反省のプロセスに必要な手段なのでしょうか。
連帯責任を負わせることで、事の重大性を把握させ、抑止力に繋げたいという意見もわからなくはないですが、作品に罪はないはず。私は芸能人のイメージダウンに繋がるスキャンダルが出るたび、すぐにお蔵入りにしてしまう最近の風潮に危機感すら覚えます。
芸能人が自らの社会的立場を自覚せず、軽率な行動をとったこと関しては一切擁護できませんが、その人間の才能によって作り出される作品に、私たちが罪を被せて抹殺してしまうのであれば、それはあまりに残念なこと。こう感じている人は私だけではないはずです。
<文/フィフィ 構成/岸沙織>