中国の首都・北京の市街地から南へ10kmほど行った豊台(ほうたい)ソフトボール場。この地で2008年8月21日に行われた北京五輪ソフトボール決勝で、日本は宿敵・アメリカを3-1で下し、悲願の金メダルを獲得した。準決勝・アメリカ戦、3位決定戦・オーストラリア戦、そして決勝と413球を投げ抜いたエース・上野由岐子(現・ビックカメラ高崎)の魂のピッチングは、9年が経過した今も、多くの人々の脳裏に焼きついて離れない。

ソフトボール日本女子代表監督・宇津木麗華さん 撮影/吉岡竜紀

 日本中を感動と興奮の渦に巻き込んだ大一番を最後に、ソフトボールは五輪の正式種目からはずれ表舞台から消える不遇を味わった。2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロ両五輪を遠くから眺めなければならなかった関係者の思いは複雑だったに違いない。辛酸をなめた彼女たちに光明が差したのは2016年夏。2020年の自国開催の大舞台にようやく戻れることが決まったのだ。12年ぶりの五輪で再び頂点に立つべく、日本ソフトボール界は大いなる熱気を帯びている。

 牽引役を託されたのが、くしくも9年前に五輪金メダルを手にした地、中国・北京出身の宇津木麗華監督である。’88年に来日し、’95年に帰化して2000年シドニー、2004年アテネ両五輪に出場しているかつての名選手は、

「人生すべて賭けて、日本のために金メダルを取りたい」

 と意気込みを新たにしている。

 2015年12月から始動したソフトボール女子日本代表はこれまで数回の強化合宿を実施した。2016年3月の千葉県鴨川市でのメンバー選考合宿では、静かな口調で選手たちを鼓舞する指揮官の姿が印象的だった。

「今の日本はそう簡単に勝てるわけじゃない。ジャパンのユニフォームを着る以上、自分たちが後悔しないようにやっていかなければいけない。つねに金メダルを意識して、自分の持っているすべてを出してください」

 独特のオーラを漂わせる宇津木麗華監督の話を、34歳のベテランになった上野も、神妙な面持ちで聞き入っていた。

「麗華監督と出会っていなかったら、北京であれだけのピッチングはできなかった。自分の道しるべとなってくれたから、今もマウンドに立っていられる。そんな麗華監督に恩返ししたいと心の底から思っています」とエースに言わしめる女性監督の生きざまを今、改めて探ってみることにする。

宇津木妙子さんとの初めての出会い

 宇津木麗華監督の帰化前の中国名は任彦麗(ニンエンリ)。1963年6月、父・任位凱、母・岳勝花の間の3番目の末っ子として誕生した。幼少期は文化大革命の混乱期だったが、きまじめな軍人の父から厳しい教育を受けた。「ウチのお父さんは“悪いことは絶対にしてはいけない”“人に迷惑をかけてはいけない”というのを口癖にしていたので、私自身もまっすぐな性格に育ちました」と彼女はしみじみ言う。

シドニー、アテネ両五輪では妙子さんとの師弟コンビがチームを牽引した

 スポーツ好きの一面を持っていた父の影響もあり、麗華監督も小学校から中学にかけてのころは陸上競技に没頭していた。

「やり投げの選手だったんですが、指導してくれた先生の旦那さんがサッカーのコーチだったんで、女子サッカーに誘われたこともあります」と本人も笑う。けれども、彼女が興味を持ったのはサッカーではなく、ソフトボールという未知なる競技。14歳のとき北京のチームの指導者がやり投げの大会に出場していた麗華監督を見初め、「やってみないか」と声をかけたのが始まりだ。その誘いに応じ、練習に行ってみると、打撃もピッチングもとにかく面白い。少女は一瞬にしてソフトボールの魅力にはまった。

 ソフトボールに転向して1年後、麗華監督は運命的な出会いを果たす。北京に遠征してきた日本代表の中に、のちに家族同然の間柄となる宇津木妙子さん(現・ビックカメラ高崎シニアアドバイザー)がいたのである。

「キャプテンでサードだった妙子さんは小柄なのによく打つ選手で、すごい人だと驚きました。そのときはただ横から見て憧れてただけだったんですが、中国ジュニア代表のキャプテンとして日本に遠征した18歳のとき、先輩から預かったお土産を妙子さんに渡して、初めて話ができました。当時は日本語が全然わからなかったんで、筆談で何とかコミュニケーションをとりましたね。中国は野球やソフトが日本ほど盛んではなく、優れた指導者がいなかったんで、妙子さんみたいな人に教えてもらえるのは本当にありがたかったです」と麗華監督は若かりし日に思いをはせる。

 現役を引退して指導者に転身したばかりの妙子さんのほうも、麗華監督の頭抜けたソフトボールセンスを瞬時に感じ取ったようだ。

「15歳の麗華が人民服を着てこっちを見ていたのは記憶があります。初めて話した日本遠征のころから、自分で考えて判断できる頭のいい選手だと思っていました。実際、カナダのエドモントンで開かれた’81年世界ユースソフトボール選手権大会では打率6割という驚異的な数字を叩き出し、リーディングヒッターになってますからね。その後、シニアに上がってきて、日中両国の試合があるたびにコミュニケーションをとりましたけど、彼女は本当に一生懸命、日本語を覚えようとしていた。手紙も送ってくれました。私のほうもロクに話ができないのに国際電話をかけて、月20万円の電話代を請求されたこともあったかな。父にはものすごく怒られましたけどね(苦笑)」と妙子さんも若かりし日の微笑ましいエピソードを披露する。

 2人の交流は続き、25歳になった麗華監督は「妙子さんの下でやりたい」と日本行きを決断する。妙子さんの力強い援護射撃で、彼女が総監督を務めていたビックカメラの前身・日立高崎に入ることになったのだが、最初は問題が山積みだった。

実の親子以上の強く不思議な絆

「麗華が日本に来たのは、忘れもしない’88年3月14日。パーマ頭でブルーのジャケットを着て、スーツケースを3つ抱えて空港に現れたんです(笑)。埼玉にある私の実家に連れていくとウチの母(恵美子さん)が手をついて“いらっしゃい”と挨拶した。彼女は目を丸くしていましたね。それから4~5年は埼玉と高崎を車で往復する生活を送りました。会社側は当初、“外国人選手は認めない”と頑なで、扱いも臨時職員的な待遇でしたが、麗華の打撃力が傑出していて1年で日本リーグ2部から1部に上がる原動力になったんで、すぐに正式採用の許可が下りました。月給は5万円。私のところに振り込まれるので、通帳をお母さんに渡して管理してもらっていました」と妙子さんは述懐する。

妙子さんの母・恵美子さんと麗華さんは実の親子のように仲がよかった。妙子さんも「母は幸せだった」としみじみ語る

 麗華監督と妙子さんの母・恵美子さんは本当の親子のように仲がよく、麗華監督の得意料理であるギョーザを一緒に作ったり、定期的に連絡をとったりと、心温まる交流が長く続いた。恵美子さんが2001年に亡くなったときも、直前に電話で話したのは実娘の妙子さんではなく、麗華監督だったという。

「麗華が親孝行をしてくれたので、母は最期まで幸せだったと思います。実は今、麗華の姉の中2の娘(可月さん)を私たち夫婦が面倒見ているんですけど、いろんな意味で麗華とは強い絆で結ばれている感じがします」と妙子さんも特別な因縁を感じているようだ。

宇津木の名を世界的に有名にする

 強固な人間関係があったから、麗華監督も日本国籍取得に踏み切れたのだろう。元軍人の父には反日感情が少なからずあり、最初は娘の決断に反対していた。そこで麗華監督は妙子さんを伴って北京へ赴き、「この人がいるから絶対に大丈夫」と必死に説得。承諾を取りつけることに成功した。「宇津木の名前を世界的に有名にします」とも約束して、尊敬する人から名字をもらったのである。

 当時32歳。すでにベテランと呼ばれる年齢になっていたが、大きなリスクを冒して日本人になった以上、ソフトボールで恩返しするしかない。強い決意を胸に秘め、麗華監督は2000年シドニー五輪へひたむきに走った。

 シドニーの日本代表は妙子さんが監督を務め、高山樹里、増淵まり子、藤井由宮子ら優秀なピッチャーを擁する好チームだった。背番号28をつけた麗華監督はサードで4番、キャプテンという重責を担ったが、予選リーグラストのニュージーランド戦から、準決勝・オーストラリア戦、決勝・アメリカ戦まで3連続ホームランという離れワザをやってのける。主砲の爆発でチームは金メダルまであと一歩と迫ったが、決勝で1-2という不覚を取り、銀メダルに終わってしまった。

「3連続ホームランも自分の中ではただ頑張っただけ。結果的に金メダルも取れなかった。それなのに、日本に戻ってきたら空港に数えきれないほど大勢の人が集まって、力いっぱい激励してくれたんです。電車に乗っても、普通のおじいちゃん、おばあちゃんから“感動したよ”“あなたが必要だからもっと頑張ってください”と言われて、五輪の影響力の大きさを実感しましたね」

 こう話す麗華監督は当時37歳。今でこそ50歳のカズ(三浦知良=横浜FC)や43歳のイチローのようなアスリートがいるものの、女子ソフトボール選手は30歳前後でやめるケースがほとんどだった。

 彼女自身、アテネを目指すのは難しいと思ったが、応援してくれる人たちのために頑張らないといけない。そんな気持ちがふつふつと湧き上がってきたようだ。

 そして4年後のアテネ五輪にも参戦。2003年から日立&ルネサス高崎(日立高崎から移行)の選手兼監督になっていたことから、日本代表でも妙子監督のマネージャー的役割も兼務。その立場で主砲にも君臨した。

 ピッチャーには22歳の上野、外野には20歳の山田恵里(日立)がいたが、麗華監督の存在感はまさに絶大。「いつもサードでどっしり構えていて、打たれると“なんでそんなところに投げたの”と怒られてばかりでした」と上野が言えば、山田も「“プレッシャーは自分たちが背負うから、とにかく思い切ってプレーしなさい”と言ってくれたので、すごく心強かったです」と懐の大きさに感謝していた。若手を後方支援することでチーム力を高めたいという思いを麗華監督は抱いていたのだろう。そのベテランの大活躍もあり、日本は順当に予選リーグを突破。準決勝で中国を破ったが、3位決定戦でオーストラリアに敗戦。まさかの銅メダルに終わってしまった。

上野を世界一のピッチャーに

 2度目の五輪が幕を閉じた瞬間、麗華監督はキッパリと現役を退くことを決めた。

「妙子さんという素晴らしい指導者の下で長くソフトボールをやってきた私が、次にやるべきだと考えたのが『若手の育成』でした。目の前には上野がいた。日本のソフトボールには絶対に上野が必要。“彼女を伸ばすのは自分しかいない”と思って日立&ルネサス高崎に誘いましたから、監督としてみっちり教えていこうと決心をしたんです」

3月の鴨川合宿で投球練習をする34歳のエース・上野。麗華監督との心温まるエピソードの数々を語ってくれた。監督に恩返しをしたいと意気込む 撮影/吉岡竜紀

 これを機に、彼女は指導者業に専念。新たな一歩を踏み出すことになった。

 麗華監督が「日本ソフトボール界を担う逸材」と信じて疑わなかった上野は九州女子高校(現・福岡大学付属若葉高校)出身の剛腕だ。’82年生まれで当時22歳。174cm・72kgという日本人離れした体躯(たいく)を武器に、最速121km/h(野球の体感160~170km/hに相当)のボールを投げることができた。だが、アテネ五輪は大会中に風邪をひいて体調を崩し、オーストラリアとの3位決定戦で欠場するなど、まだまだ不安定な部分が垣間見えた。

「アテネで金メダルを逃した原因を考えると、やはりピッチャーでした。もっとしっかりしたピッチャーがいれば私たちはより大きな自信を持って戦えたんじゃないかと感じたんです。そのためにも上野を世界一のピッチャーに育てて、自分の母国・中国で開かれる北京五輪を託すしかない。そう考えて、私は上野をアメリカに連れていきました」

 2005年、麗華監督とともに向かった異国で、上野はショッキングな出来事に遭遇する。投球練習をしようとした矢先、アメリカ人ピッチングコーチに止められたのだ。

「あなたは今、投げる気がないでしょう」

 予想外の厳しいひと言が突き刺さった。

「この1球を打たれたら終わりだという責任を感じながら、自信を持ってやりなさい」

 次の言葉にも重みがあった。

「上野はそれまでのソフトボールへの取り組みを反省したと思います。単に速いボールを投げればいいわけじゃない。人間力を高めなければいけないということを学んだはず。そこから上野はガラリと変わりました」と麗華監督は振り返る。

 2005年10月の日本リーグ1部・大鵬薬品戦、2006年10月のシオノギ製薬戦での完全試合達成、2007年9月の日本人初の1000奪三振など、上野は猛烈な勢いで階段を駆け上がっていく。

 そして2008年北京五輪では、冒頭のとおり、日本代表を金メダルへと導く働きを見せた。麗華監督は少し離れたところから教え子の奮闘を見守っていたが、故郷・北京で偉業を果たしてくれたことに心から感謝した。

嫌なことを背負うために私が横にいる

 その上野がその後、燃え尽き症候群のような状態に陥った。北京を最後にソフトボールが五輪種目からはずれたうえケガも重なり、競技続行への情熱を失いかけたのだ。「自分の心がそうとう荒れていた。なかなかモチベーションが上がらなかったと思います」と本人もつらい胸の内を吐露する。

 だからといって、世界一のピッチャーを失うのは、日本にとっての損失以外の何物でもない。麗華監督は教え子をなだめ、励まし、勇気づけながら、ソフトボールへの思いを取り戻させようと試みた。2010年世界選手権(ベネズエラ)を回避したいと上野が申し入れてきたときも「それならいいよ。すべて私が背負うから。逆に行きたくても行かせないよ。あなたは世界一なんだから、嫌なことを背負うために自分が横にいるから」と受け入れ、さまざまな批判の矢面にも立ったのだ。

「自分の気持ちを尊重してもらいながら、うまく引っ張ってもらえました。麗華監督じゃなかったら、自分もここまで頑張り続けられなかった」と、上野自身も指揮官の存在感の大きさを改めて痛感したという。

代表監督は覚悟。逃げられない

 北京の後はエースのみならず、ソフトボール界も多少なりと揺れ動いた。2011年2月には北京五輪金メダル指揮官の斎藤春香監督(現・弘前市職員)が辞任。麗華監督が後を引き継ぐことになった。「代表監督は覚悟。絶対に逃げられない」という妙子さんの言葉を胸に刻みつけ、新指揮官は強いチーム作りに全身全霊を注いだ。上野も代表に復帰し、日本は2012年カナダ、2014年オランダと世界選手権2連覇を達成。五輪という檜(ひのき)舞台からは離れたものの、日本ソフトボールのレベルアップは着実に進んでいたのだ。

「2012年世界選手権決勝のアメリカ戦も、最後にスクイズで勝ったんですけど、麗華は2ストライク・3ボールという追い込まれた状況でバントをさせるという大博打をやってのけた。根っからの勝負師なんです。バントやヒットエンドランなど常日ごろから選手にいろんなことをやらせてますし、ホームランだけじゃ勝てないこともよくわかっている。現役時代の彼女も何でもできる怖いものなしの選手だった。自分自身の経験を存分に生かしているんだと思います。

 一方で緻密さも持ち合わせている。それも選手時代から変わりません。作戦ノートには選手の一挙手一投足や相手の特徴などがこと細かく書いてある。試合前には毎回のように私にオーダーを送ってきますけど、“大丈夫だよ”と前向きに返してます。私に太鼓判を押されるとどこか安心するんでしょう。そんな一面もありますけど、あらゆる面で努力を惜しまない指導者だと感じます」と先輩指導者の妙子さんも麗華監督の有能さを代弁する。

 北京五輪から8年。冬の時代を強いられてきたソフトボールの五輪復帰がついに現実となった。しかも、その舞台は2020年東京だ。日本ソフトボール界にとって、12年ぶりの金メダル獲得は至上命題。誰を監督に据えるかは重要なテーマだった。

 協会は、2015年12月で日本代表からいったん退き、ビックカメラ高崎の監督に専念していた麗華監督の再抜擢を決定。2016年12月から新たな体制で東京五輪へ突き進むことになったのである。

ソフトボールは人間力

 沖縄を皮切りに、2017年1月の台湾、2月のオーストラリア、3月の鴨川と日本リーグのない冬季期間は毎月のように代表合宿を組んだが、沖縄合宿は1日3部練習。選手たちは約10時間をトレーニングに費やした。台湾合宿では野手がハードなフィジカル強化に挑む傍らで、投手陣はランニングやダッシュ、巨大なタイヤを全員で動かすという一種、独特なメニューを消化していて、全員が「世界一」を強く意識しているのがうかがえた。

5月20日の日本リーグを視察する麗華監督と妙子さん。3年後の東京五輪に向けての選手発掘は着々と進んでいる 撮影/吉岡竜紀

 結果を出すためには投げる・打つ・守る・走るといった技術面を磨き上げるのはもちろんのこと、人としての力を高めなければならない。とりわけ麗華監督は「人間力」を重視し、その必要性をミーティングでも口が酸っぱくなるほど選手たちに言い続けている。

「ソフトボールはひとりじゃできないしチーム全体で戦えない。そのために各自が謙虚になって努力することをすすんでやらないといけない。常に周りを見て、目配り、気配りしながら、何をすべきかを考えられる人間力の高い選手がそろわないと本当に勝てるチームにはならない。私も麗華にもそういう信念があります。今の選手たちを見ると、技術は高いけど、自ら行動を起こしたり、チームを引っ張ろうとする力が弱い。麗華はすべてにおいて自分からアクションを起こして学ぼうとする意欲があった。そういう力を選手につけさせるのは、簡単なことではないと思います」と妙子さんは選手を操る難しさを口にする。

 中国出身の麗華監督は「自分には日本語力が足りないし、選手が納得する言葉をうまく言えないところがある」と認める。その弱点を克服するために、さまざまな本を読むなど日々、勉強を怠らない。

「星野仙一監督の本は大好きですし、野村克也監督、落合博満監督、イチローさんの本も読んで参考にしています。もちろん野球関連だけでなく、脳をうまく使う方法にも興味があります。人間の脳神経は12個あるといいますけど、その中でどれくらいの考え方を持てるのかを追求することで、選手たちに何かしらのヒントを与えられるかもしれない。

 たくさんの引き出しを持つことが優れた指導者の絶対条件だと思います」と麗華監督は言う。

 スタッフをうまく使うことも、効果的な指導に求められるポイント。麗華監督率いる今の日本代表には、アテネ五輪をともに戦った戦友で現在は太陽誘電の監督を務めている山路典子氏、2012・2014年世界選手権突破の盟友であるルーシー・カサレス氏らをコーチに招いている。山路氏は根っからの関西人でチームの明るい雰囲気を作ることに役立ってくれているし、ルーシー氏の存在によって宿敵・アメリカの情報収集が容易になる。とりわけ、アメリカ対策は重要だ。2016年世界選手権(カナダ)はアメリカに苦杯を喫して準優勝に終わっている。永遠のライバルに勝たない限り、東京での頂点はありえない。麗華監督も事あるごとに「(190cmの長身を誇る剛腕投手のモニカ・アボット(トヨタ自動車)をどう打つかを考えて。それができないなら金メダルなんて言わないほうがいい」と語気を強め、選手たちを叱咤(しった)激励している。

今度こそ世界の頂点へ

 アメリカもアボット筆頭に進化を続けているだけに、日本も上野・山田らベテランのみならず、若い力を育てることが急務の課題。そこで指揮官が大きな期待を寄せているのが、2006年日本リーグMVPの藤田倭(倭=やまと/太陽誘電)。所属チームで「エースで4番」を背負っている26歳の大器はポスト上野の一番手と目されている。

「藤田はもともとわが道を行くタイプだったんです。その性格を知って“チームに何ができるのかを考えたほうがいい”“ソフトボールのためにもっとやれることがあるんじゃないの”と何度も話してますし、チームの監督である山路にも指導してもらってます。彼女は上野みたいにいつか日本のソフトボールを背負ってくれるかもしれない。上野と藤田という2本柱を東京までにしっかり作りたいですね」と指揮官は目を輝かせる。藤田以外にも、21歳の濱村ゆかり(ビックカメラ高崎)、17歳の勝股美咲(多治見西高校)といったポテンシャルの高い若手ピッチャーもいるだけに、彼女らが右肩上がりに成長していけば、日本の投手陣も安泰だろう。

 そのうえで、山田以下、野手のレベルアップを図ることも不可欠のテーマだ。北京五輪の最終選考で落選という憂き目に遭っている河野美里(太陽誘電)も「32歳になってまた五輪という夢を思い描けるのは本当にすごいこと。自分も大舞台に立ちたい」と強い意気込みを語っていた。30代選手がそういう勢いなら、10代。20代の若い世代の心にも火がつくはず。そういうチーム内の自主性、競争意識の高さを麗華監督は強く求めている。

 はたして3年後、彼女は自身が選手だったときにはつかめなかった五輪の頂点に立てるのか……大願成就へ。まずは7月のUSAカップ・カナダカップ、11月のアジア女子選手権という2017年の2つの国際トーナメントが新・宇津木ジャパンを待つ。

取材・文/元川悦子

もとかわえつこ 1967年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心としたスポーツ取材を主に手がけており、ワールドカップは'94年アメリカ大会から'14年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌ー松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか。