新横綱・稀勢の里のみごとな逆転劇で、おおいに盛り上がった今年の大相撲春場所。その13日目(3月23日)、現役最古参、46歳になるというひとりの力士が、静かに土俵に別れを告げた。
力士の名は、『北斗龍』。
この日、花道では所属する相撲部屋の後輩らが花束を持って出迎え、31年にわたる土俵人生最後の日をねぎらった。
翌24日、スポーツ新聞各紙は、自社サイトを中心に『現役最古参46歳力士引退(スポーツ報知)』『46歳の北斗龍ら8人が土俵去る(日刊スポーツ)』などの見出しで報道。 『スポーツ報知』は、北斗龍のこんな言葉を伝えている。
《疲れたね。悔いなくやろうと思ったんですよ。31年の土俵人生? 長いねえ、この世界しかしらないからね》
北斗龍の引退時の番付は、『東序の口十三枚目』。いわば最下位で相撲人生を終えたことになる。強さで人を魅了する力士だったとは、とても言えない。
それなのに、スポーツ各紙がその引退をこぞって報道するのには、相撲を続けるその姿に、なにか感じさせるものがあったからに違いない。
そんな北斗龍こと丸山定裕さんが髷(まげ)を落として選んだのは、角界一と評される料理の腕を生かしての、外食産業への転身。この春から九州は福岡のからあげのフランチャイズ店『元祖! 中津からあげ「もり山」西新店』に就職、第二の人生を開始したのだ。
西新店のオーナー松尾義人さん(49)が、丸山さんを評して言う。
「覚えるのが早いし、手際がいい。新弟子だったころからの友人で、九州に来たらほぼ毎日連絡を取り合って一緒におる仲なんですが、“仕事に慣れるまで誘ってくれるな”と。九州に骨を埋める覚悟で来てくれている」
そんな北斗龍こと丸山さんの相撲人生、そして料理にかけた思いとは──?
◇ ◇ ◇
「生まれたのは、北海道は函館の五稜郭から車で10分ぐらいのところにある富岡町。住宅街で、相撲が盛んとか、そういうわけでもなかったね」
そんな定裕少年は、地元函館の昭和小学校を経て桐花中学に入学、柔道を始めた。
「小学校4年ごろから身体が大きくなり始めて、野球やったってサッカーやったって、身体がでかくなって動かへん。自然、柔道とかそっちにいったの。でも特別強いわけでもなくて、在籍していたってだけだった」
昭和61(1986)年、中学3年のとき人生を変えることが起こる。前年の昭和60(1985)年12月、北海道出身の大横綱・北の湖が一代年寄・北の湖を襲名。新しく北の湖部屋を創設した。
“函館の富岡町に、柔道をやっている中学生がいる。身体が大きく有望そうだ”
そう聞きつけた親方が、スカウトにやって来たのだ。
「俺ら(北の湖関の)現役時代を見ているからね。あんなスゴイ人が来るといったら、断れない。母親と従兄弟から“北の湖が迎えにくるから”と言われて。それで北の湖部屋に入門することになったんです」
北の湖親方と何を話したかは、まったくもって覚えていない。大横綱にスカウトされた喜びよりも、自分を待っているこれからの日々への不安のほうが大きかった。
「“しんどいよ、相撲界は”そういう話を聞くじゃない。だからそのことで頭がいっぱいだったよね。とりあえずはその不安だけでした」
昭和61(1986)年2月、丸山さんは中学卒業を待たずに、東京は江東区清澄にあった北の湖部屋に入門した。
31年間にわたる、長い長い相撲人生の始まりだった。
漫画『北斗の拳』から北斗龍と命名!?
その年、丸山さんと一緒に北の湖部屋に入門した仲間は8、9人ほど。
新弟子候補生たちは、北の湖部屋の2階と3階に用意された大部屋で集団生活をしながら、さまざまな雑用をこなしつつ3月に行われる新弟子検査合格を目指す。2階にあった40畳の大部屋で、兄弟子を含む13~14人での集団生活が始まった。
「部屋ができてまだ2~3か月だったけど、北の湖が現役だったときからスカウトした先輩が12人いた。一番上でも3年ぐらい上なだけなんだけど、3年稽古していると身体が違うんだよ、見るからに威圧感があって。話しづらいんだよね。身長が2メートルあるやつもおったしね(笑)」
丸山さんを新弟子時代から知っている前出・松尾さんは、
「あのころの丸ちゃんは元横綱の大乃国(現・芝田山親方)によく似ていましたよ。もう背格好からそっくり。髪の毛もふさふさだったし(笑)。
将来、大物になると思ったか? う~ん……、いやいや。昔からやさしい温厚な性格だったしね(笑)」
稽古の厳しさで知られる大相撲の世界。だが新弟子候補生たちには、稽古以前に山のような雑用が待っている。
「朝は5時半に起きて、土俵の砂をならしたりの準備をして。それから四股踏んで鉄砲して、腕立てとかの準備運動をやってから、6時ごろからは番付の下の者から10時半ごろまで申し合い(土俵の上で2人で勝負する実戦形式の稽古)。これは三十番から四十番ぐらいやる。それからぶつかり稽古。この一連は本当にキツい。
稽古が終わったら砂を落として、風呂番は風呂の湯をためたりの雑用をしたら、親方から順番に風呂に入って」
午後は午後で、まわし上げ(干してあったまわしを取り込む)や洗濯など夕方の8時ごろまで雑用に追われ続ける。
こうした毎日に、新弟子検査前にやめてしまう同期も多かった。
そんななかでも丸山さんは、昭和61(1986)年3月の新弟子検査に、身長177センチ、体重100キロでらくらくと合格。だが入門早々、力の違いを実感させられた。
同部屋同期に、厳雄(がんゆう)関がいる。2015年11月に北の湖親方が死去。それにともない北の湖部屋は名称変更するが、同部屋を『山響(やまひびき)部屋』と改名継承した、現在の山響親方その人である。
「相撲の稽古は、同じような実力の者同士でやって、勝てるようになると、親方から“お前、もうひとつ上に行け”とか言われるの。
厳雄関は中学のころから相撲の全国大会に出て勝っているような人だったから、俺らの稽古ではなくて次の稽古。レベルが違っていた。見ていて勝てる気がしなかったね」
丸山さんは昭和61(1986)年3月の大阪場所の前相撲(大相撲で番付外の力士が取る相撲のこと)で、『丸山』の名で初土俵を踏む。
当時の前相撲では3勝すると一番出世、3勝2敗・3勝1敗で二番出世と言っていたが、丸山は3勝2敗で二番出世をして、北の湖親方から、『北斗龍』の四股名をちょうだいした。次回の5月場所から、この四股名を名乗るのだ。
「“カッコいいなあ!”と思ったよ(笑)。北斗龍の四股名の由来? 親方はそのころ、漫画の『北斗の拳』をよく読んでいたんだよなあ。それでつけたのかも。わからないけど、その可能性はあるんじゃないかな(笑)」
稽古、稽古、そしてまた稽古の毎日
さて、『北斗龍』となり、昭和61(1986)年の5月場所では2勝5敗で『東序の口三十一枚目』に。同年11月場所では『西序二段百二十一枚目』に昇進、平成2(1990)年の7月場所では、東三段目七十九枚目に出世する。
昇進を後押ししたのは、稽古、稽古の毎日だ。
「申し合いで勝つでしょう。勝つと、つぎの相手を買える(指名できる)の。買われるほうも、ヘロヘロになってももう一番。あるいは負けて悔しければ“もう一番お願いします”と。
それが終わるとぶつかり稽古。胸を出してもらって、何十回も押すわけですよ。でも申し合いで何十番も相撲を取ったあとだから、もう身体がしんどくて押せないわけ。そうすると転がされて、頭も身体も砂だらけになってね」
例えば、水泳を始め、練習練習の毎日を送っていたら、“将来はオリンピックで金メダル選手に”と願うのは、きわめて自然な願望だろう。
同じように、稽古、稽古の毎日を続けていたが、“将来、横綱になりたい”とは、思ったこともなかったと言う。
「逆にこの世界を知ってしまうと、“横綱になりたい”とかは言えなかった。関取(十両以上)になりたいとは思ったけれど。
稽古しているのを見ていると、“この人、すごい稽古をやってんなあ”と思って見ていても、勝てないのよ。だから逆に、“横綱になりたい”とかは、軽々しくは口には出せなかったよね」
そう語る丸山さんだが、故・北の湖親方の教えと人柄は、今でも胸に焼きついている。
「あんましゃべんない人なんだよね。しゃべんないで、ポイントだけをぼそぼそって言うの。でも見てるところはちゃんと見ている。いいところを伸ばす指導法だったと思うんだよね」
落語の『阿武松(おうのまつ)』に、“無理偏に拳骨(げんこつ)と書いて兄弟子と読む”というマクラがある。
相撲界における上下関係の厳しさを示したものだが、その頂点に立つ親方は、そんな横暴さとは大違いの、懐の深い人物だったと丸山さん。
「うちの北の湖親方は人を殴ったりとかは大嫌いで、“絶対するな!”って人だった。“殴って覚えさせるなんて、人間は犬猫じゃないんだよ”って言っていましたね。だから親方に殴られたことって、1度もないんです」
10年前、当時17歳の力士が『かわいがり』で、死亡する事件があった。以来、期待の若手に胸を貸す行為をいう言葉だった『かわいがり』が、理不尽なしごきを表す言葉に豹変(ひょうへん)してしまった。
この『かわいがり』を、丸山さんは相撲界に身を置いた者としてこんなふうに言う。
「なんの理由もなくてドツキ回されたり、引っ張り回されたりってことはないからねえ。ほか(の部屋の者)に聞いても、これは同じだと思う。
それなのに、なんで『かわいがり』なんてことが言われるかというと、申し合いの稽古に、“気合が入っていない”ってことは、確かにあるから。
でも毎日毎日何十番も(申し合いを)やるんだから、すべてに気合が入らないこともあるわけなのよ。
それを見ていた先輩が、ぶつかり稽古で、“お前は申し合いが足りないから”として、転がされ、泥だらけにされることはある」
『かわいがり』を自分を強くするためのものととるか、あるいはいじめととるかは、本人次第──。
角界に31年間にわたり身を置いた元力士は、そんなふうに言うのである。
ムチウチ症を患いチャンコ長へ
さて、平成7(1995)年の5月場所の『東三段目五十三枚目』を最高に、北斗龍は長い低迷の時代を迎える。
昭和63(1988)年には、当時同じ序二段だった曙と対戦、未来の横綱との格の違いを実感させられている。
「あっという間に転がされた。(曙関)は手が長いでしょ。相撲を取っているとだいたいどこらへんまで手が出るか経験的にわかるんだけど、それ以上にグンと伸びてきた。もう規格外。びっくりしたよ」
『若貴時代』の立役者・貴乃花関に関しても、「もう全然違っていた。別ものだったよね。完成されていて、中学出たばかりの15歳の相撲じゃなかった。並大抵じゃない努力があったから、あそこまで行ったんです。それこそ血反吐(ちへど)を吐くまでやった結果じゃないですか」
さて平成10(1998)年、北斗龍に転機が訪れる。
稽古中に首を痛め、ムチウチ症を患ってしまったのである。2場所ほど休み、それからまた稽古を始めたが、再び首を痛めてしまった。
それを見た北の湖部屋の部屋付き親方(自分自身の部屋を持たず、どこかの部屋に所属している親方)の小野川親方が、北斗龍にこう言った。
「もう稽古するのやめておけ。おれが北の湖親方に言ってやるから、お前はチャンコ番をやれ──」
野球で言えば、戦力外通告を受けたようなものだった。
「もうダメなのか、と。でも正直、もう稽古しなくていいんだという安堵(あんど)感もあった。治れば稽古しようとは思ったけど、ダメだったね……」
入門12年目にやって来た転機。とはいえ、場所に出なければ力士ではいられない。
痛めた首を守るようにして土俵に上がるから、当然、成績はふるわない。序二段の東と西を行ったり来たりが決まりのようになってしまった。
平成12(2000)年には、土俵に上がりつつも、チャンコ長に専念することを決心する。北斗龍が“料理の腕は角界一”との評価を受け始めるのは、これからのことである。
「(2002年に相撲協会理事長に就任した)北の湖理事長から、“お前のやりたいようにやればいいから”と言われたら、適当なことはできないよね。場所に入ると、夜、後援会の人とかが部屋にチャンコ食べに来たりするでしょう。理事長も一緒に食事するし、ヘタなものは作れない」
チャンコというと、いわゆるチャンコ鍋が頭に浮かぶが、相撲部屋で食べる料理はすべてチャンコという。
さまざまなチャンコがあるが、北の湖部屋のいわゆるチャンコ鍋は、塩味で、滋養たっぷりの豪快なものだという。
「鶏ガラで4時間ぐらいかけてだしをとるの。そこに、塩と企業秘密と(笑)、大根、にんじん、玉ねぎ、糸コン。それからキャベツに油揚げ、キノコ類やごぼう。そこに鶏団子。そんなもんかなあ」
3月の大阪場所の際に、北の湖部屋の宿舎になっている大阪は成恩寺(じょうおんじ)の住職夫人は、丸山さんのチャンコの腕を、こんなふうに評価する。
「何を作ってもおいしいです。お魚のアンコウも自分でおさばきになられるし、ふぐもさばけるんじゃないかしら。
うちの寺では3月最初の日曜日に、『ふれあい会』ということで、地域と檀家の方々に、お餅と、それからチャンコを500人前振る舞うんですけど1時間でなくなります。
これまでいくつかのお部屋のチャンコをいただいたことありますけど、丸山くんのが一番おいしいと思います」
北の湖部屋の弟弟子であり、丸山さんの右腕ともいうべき副チャンコ長だった元・大天祐こと山田智秋さん(37)も、
「チキン南蛮とか魚の漬けとかが本当においしかった。
北の湖部屋では、親方と関取衆が入ると、ちょっと給仕したら“すぐ食べろ”って感じでみんなでワイワイ食べるんですが、みな、おいしいおいしいと食べてました。
急にお客さんが入ったりすると、“あ~めんどくさい”とか言いながらもちゃんとおいしいチャンコを作りますから(笑)、本人も料理を作るのが好きなんだと思います。角界一という評判? 自分もそのとおりだと思います」
丸山さんを知る人すべてが料理の腕を口をそろえてそう絶賛する。まごうことなく角界一の腕前なのだ。それも、北の湖親方がいればこそ。しみじみと丸山さんが言う。
「チャンコ番として相撲を続けられたのは、北の湖部屋の若い衆だったから。ほかの部屋だったら、やっていないし、ムチウチになった時点でやめていると思う。そうしなかったのは、親方の人徳、懐の深さだったんだよね……」
糖尿病で足の指を2本切断
さて、チャンコ番として稽古が手薄になるにつれ、力士の職業病とも言うべき糖尿病が鎌首をもたげ始めた。
「糖尿は30歳前ぐらいからあったんだけど、稽古で左足の親指の裏に傷を作っちゃったのね。でも“ほっときゃ治る”と。消毒とテーピング程度でごまかしていたんだけど、それがダメだったね」
傷口はじゅくじゅくと膿(うみ)を持ち、身体は絶えず微熱を感じるようになっていた。たまらず国技館横の同愛記念病院に駆け込むと、医師は北斗龍にこう告げた。
「これはもう、即、切断です」
平成26(2014)年3月の大阪場所直後に、同病院で左足親指を切断。
悲運はさらに続く。
翌平成27(2015)年の7月場所直前には、右足中指を切断。関取未経験者では最長記録だった1169回の連続出場記録、初土俵から通算186場所連続出場の記録が途切れた。だが足の指をなくしても記録の更新が途絶えても、負けが込こんでも相撲をやめようとは思わなかった。
「平成27年の九州場所直前の10月のなかば、理事長のおかみさんと話をしたの。
おかみさんは“あなたは理事長の定年まではいてくれると思ってます”と。自分も“身体が続くまではそのつもりでいます”と答えた。理事長の定年まではいると、おかみさんと約束していたんです」
語る言葉が小さく震える。
相撲を続けてこられたのは、北の湖親方がいてくれたからこそ。あれから2年近くたつ今も、つい思いがこみ上げてきてしまうのだ。
ちなみに、北の湖理事長の定年は2018年。本来なら北斗龍はまだチャンコ長を続けていたはずだ。だが平成27(2015)年、九州場所さなかの11月20日──。
北の湖理事長が貧血を訴え、病院に搬送されたとの連絡が巡業部屋(地方巡業中の居留場所)にいた北斗龍に入った。
「ついていった若い衆たちに、“オヤジは?”と聞くと“足がむくんで若い衆に足をもませていますけど、普通にしています”と。それで安心してたら、夕方になって“容体が急変した”と」
同日午後6時55分、北の湖敏満相撲協会理事長、直腸がんによる多臓器不全で死去。享年62歳だった。
関取衆をはじめ、関係者が大挙して病院に駆けつけた。
29年の長きにわたり、ともに暮らし自分を買ってくれていた身としては、飛んででも病院に駆けつけたかった。
だが感情にまかせて自分が行ったら、部屋に残るのは新弟子ばかり。混乱は必至だった。故・北の湖理事長が、はたしてそれを望むだろうか?
北斗龍は部屋に残り、マスコミ対応の最前線に立つ。
「オヤジに最期の挨拶はできなかった。けれども斎場のほうに運ばれたとき、一番に顔を見させてもらったから……」
北斗龍が足指を切断することになった際には、真っ先に入院する病院に駆けつけて、「(理事長職をやらずに)俺がいたら、こんなことにはさせなかったのに……」と絶句していたと、のちに聞いた。
まさに父親代わりだった人との別れ。北斗龍は身体も精神も、もう限界に達していた。
前出・松尾さんも言う。
「2~3日後に家に来たときも、飲みもせず、しゃべりもせず。“どうしていいか、なんもわからん”と泣いていました」
北の湖部屋改め『山響部屋』となった部屋の運営が軌道に乗るのを見届けた本年3月、引退を決意した。
「引退ひとつ前の初場所では体力的には変わらないものの、気持ちのほうが、もうダメ。切れてしまっていた。3月の引退では、“とうとう終わりか……”と感慨無量でした」
31年間を過ごした角界に別れを告げたのだった。
目指せ、からあげ界の横綱
引退から数か月。丸山さんの姿は、福岡は西新の商店街・高取商店街にあった。
4月に『元祖! 中津からあげ「もり山」西新店』に就職、現在見習いとして店長の森山寛之さん(38)をアシスト、まずは『からあげグランプリ塩ダレ部門』で5回連続最高金賞受賞という秘伝の味を身につけるべく、奮闘している最中だ。
実力社会である大相撲では、幕下以下には給料が出ない。収入は序二段として場所ごとに8万円の手当と、1勝ごとに1500円程度。あとは後援会からのご祝儀と関取からの小遣いがすべて。個人で店を開けるような蓄えなどなかった。
開業こそできなかったが、塩ダレだけでさっぱりと仕上げるからあげは、子どもから高齢者まで大好評。香ばしい香りに誘われて、商店街を行く人たちが次々と立ち止まる。
店長の森山さんが言う。
「見た目は怖そうなんだけど、ものすごくやさしい人です。接客するとやんわりされているんで、そのギャップが人気です(笑)。小さなお子さんもニコニコと笑ったりね。
実際、丸さんがからあげ揚げている姿って、実にうまそうに見えるんですよ(笑)。お客さんもそう言いますね」
前出の西新店オーナーの松尾さんがこう言っている
「将来は丸ちゃんに七隈の店を任せたい。この店は狭い反面、座っても作業ができる。足が悪くてもやれますから」
昨年、人手不足から、一時この店をたたもうと考えたこともあると松尾さん。だが、「丸ちゃんが来るんなら、店を閉め、空家賃を払ってでも手放さないでおこうと思った」
人生の土俵を相撲界から外食産業に移しての、丸山さんの勝負は始まったばかり。
だがこの世界なら、さまざまな人々の温かい目に見守られつつ、角界一と称された料理の腕を存分に生かすことができるだろう。とはいえ、当人はいたって謙虚だ。
「まだまだ見習い。相撲取りのときの料理と、お客さんにお金出して食べてもらう料理は別。まずは修業しなくちゃ」
からあげ界の横綱目指しての勝負は、待ったなし! ハッキョヨイ、残った──!
取材・文/千羽ひとみ
せんばひとみ ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。『人間ドキュメント』取材のたび、「市井の人物ほど実は非凡」であると実感。その存在感に毎回、圧倒されている。