震災で受けたダメージによって、それぞれ、回復に向けての困難を抱えていた。

「震災前から沿岸部の子どもたちを支援していました。震災後、大川小の子どもたちと出会い、高校受験を名目にメンタルケアの支援もしました。当初、子どもたちの学習意欲が湧かない状態でした。その中で、哲也さんが『校舎は残したい』と言い出したのです」

 震災から4年後、大川小卒業生の中で作っていた「チーム大川」は校舎保存に関して、子どもたちの声として表明した。地域の住民で作る「復興協議会」でも保存を訴えた。結果、協議会の住民たちは市に対し校舎保存を求めた。市では、解体から保存へと方針を転換した。

 只野さんは「子どもたちが声を上げたために保存となったこと自体も掲示しないといけないのではないでしょうか。これでは、伝承が始まる前に、置き去りにされているように思います」と、保存のあり方について提言する。

「校舎の保存は学校防災の拠点とすべきです。地域の被災の話は、コミュニティーセンターで展示すればいい。それに、『言い出しっぺ』の哲也は市から保存計画の説明を受けたようです。しかし、計画に対し意見を言うことはできませんでした。いかがなものか」

「息子は“先生、山さ逃げっぺ”と懇願していた。
山に行けば救えた命だった」

裁判で決着を──元原告団団長・今野浩行さん(59)

 保存計画が遅れた背景には、児童23人の遺族が市と県を相手に約23億円の損害賠償を求めた裁判があったからだろう。裁判では遺族側勝訴で決着した。'19年10月10日、最高裁(山口厚裁判長)は、市と県の上告を退け、14億3600万円の支払いを命じた仙台高裁の判決が確定した。

 判決によると、同小の校長らには児童の安全確保のために、地域住民よりもはるかに高い防災知識や経験が求められるとした。また、校長は、求められていた危機管理マニュアルの改訂義務を怠った。さらに市教委も指導を怠っていたことを認めた。

津波がくるまでの事前対策が大切と認められました」と只野さん。しかし、裁判では、津波にのまれるまで「まだ、あの日に何があったのかわからないままです」と、つぶやいた。

 なぜ、児童たちの避難が遅れたのかは、文部科学省も関与した「大川小学校事故検証委員会」で解明されるはずだった。しかし、'14年2月に公表された報告書では踏み込めなかった。

 裁判の原告団長だった今野浩行さん(59)は「判決は画期的だったと言われていますが、個人的には当たり前のことだと思います。学校はきちんと子どもの命を預かる場。やるべきことをしていれば、子どもの命を救えました。それが裁判を通じてわかったことです」と話す。

大輔さんの七五三の写真。撮影当時、成長した麻里さんのドレス姿を見て、裕行さんは涙を流したと、ひとみさんが振り返っていた
大輔さんの七五三の写真。撮影当時、成長した麻里さんのドレス姿を見て、裕行さんは涙を流したと、ひとみさんが振り返っていた

 今野さんは、当時6年生の大輔君を亡くした。目撃者によると、地震直後、「先生、山さ逃げっペ」「こんなところにいると死んでしまう」と教師に懇願していた。

 当日の大川小の避難の状況や津波の様子、生存児童について最も語れる存在は、生き残った唯一の教諭だけだ。