女たちが担う沖縄の平和

 辺野古の翌日は、海の向こうにカウボーイハットの形をして浮かぶ、伊江島に渡った。

 42年前と16年前、「命(ぬち)ドゥ宝(命こそ宝)」でよく知られる反戦地主・阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(’02年、101歳で死去)をお訪ねしたことがある。最初の訪問時、米軍の演習に使用された、原爆の模擬弾を見せていただいて驚嘆した。

本部半島の北西に浮かぶ伊江島。ここから反基地闘争は始まった 撮影/浅井真由美
本部半島の北西に浮かぶ伊江島。ここから反基地闘争は始まった 撮影/浅井真由美
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 この小さな島に、日本軍の大飛行場があったため、島民1500人、日本兵2000人が戦死した。

 戦後は米軍に「銃剣とブルドーザー」によって、強制的に土地を奪われた。

 いまなお、島の面積の35%が米軍用地である。「ヌチドゥ宝」、それが悲劇の教訓であり、未来への希望の言葉である。

 阿波根昌鴻さんに協力して、反戦平和資料館『ヌチドゥタカラの家』を建設し、いま館長を務めているのが謝花悦子さん(79)。この島出身で、父親はこの島での戦死者のひとりである。

「また戦争になりそうで怖い。どうして同じことを繰り返そうとしているのか」

 怒りの表情を隠せないのは、ここがオスプレイと最新鋭F35ステルス戦闘機の訓練基地として強化され、これからさらに危険になりそうだからだ。

 戦争中は重病で寝たきりだった。病院で治療を受けられたのは、米軍に占領されてから。その個人的な体験と恐怖を語り続けている。 

 車イス生活の謝花さんは、伊江村議の名嘉実さん(62)に、米軍基地を案内するように頼んでくださった。

「非暴力の抵抗」を貫いた阿波根さんの教えを受け継ぐ謝花さん 撮影/浅井真由美
「非暴力の抵抗」を貫いた阿波根さんの教えを受け継ぐ謝花さん 撮影/浅井真由美

 杭1本の境界表示で、基地と民家や畑がごちゃ混ぜに暮らしている。かつて63%を占めていた基地の過剰存在を理解させられた。

 帰る日、辺野古の基地建設工事の現場に行ってみた。座り込んでいる人々の中に、顔見知りの島袋文子さん(88)や上間芳子さん(72)がいた。毎日が心配で、家にじいっとしていられない人たちである。

 このような女性たちが、沖縄の平和を担っている。

取材・文/鎌田 慧

ルポライター、ジャーナリスト。1938年、青森県生まれ。新聞、雑誌記者を経てフリー。労働問題、原発、基地など社会問題をテーマに、徹底して現場に足を運び、深く斬り込んだルポを発表し続けている。