性別適合手術は1998年に解禁され、埼玉大学、岡山大学が先行した。岡山大でホルモン治療を続けた後、手術を受けて56歳で男と訣別した。
「うれしかったのは旅館で女風呂に入れることでした」
父親はすでに亡くなっていたが、母親からは「親不孝者」となじられた。現在は高野山で買った古い家で暮らす。
尼僧になるには僧籍簿の性別変更が必要だ。真言宗では前代未聞だったが告白すると宗務総長は「宗門会議にかけるとややこしくなる」とうまく取り計らってくれた。成績が優秀だったため「残念や」と惜しまれた。
高野山大学大学院で博士号まで取り四国遍路に関する研究書や入門書も著わし、現在、園田学園女子大学(尼崎市)でも講義を持つ。優秀な柴谷さんも女性になると活躍の場は狭まるのだ。高野山は男尊女卑が強く明治時代まで女人禁制だった。
「今も尼僧は住職など要職に就けず、重要な行事に尼僧はほぼ参加できません」
性的少数者の“駆け込み寺”を
今、柴谷さんは苦しんだ経験を生かして同じような性的少数者が集まれる“駆け込み寺”をつくろうとしている。すでに寝屋川市の実家の大きな倉庫を改装して「性善寺」とすることに決めた。柱は2つ。悩み相談と永代供養だ。
「抽象的だと人は集まりようがない。形が必要です」
改装費用は約1400万円かかる。寄付などで400万円ほど集まったが全く足りない。「取材で回っていた財界の人たちはほとんど入れ替わってしまったし」と苦慮する。
「基本的に同性愛者は子どもができないから供養してくれる人がいない。年齢が高くなるとこの悩みが出てくるんです。お墓をつくるスペースはありませんけれど、ここでお骨を預かり永代供養ができれば、その収入で運営したい」
性的少数者が活躍できる場は限定されている。
「まだまだゲテモノ扱いする人たちも多い。偏見に苦しむ人たちが気楽に話せる場にしたい。大新聞社の1000万円以上の年収を捨てて貧乏な尼さんになったけど、自分らしく生きるにはよかった」
取材日に「めったに着ない」という晴れ着姿だった柴谷宗叔さんは「大阪のおばちゃん」の笑顔を見せた。
(取材・文 ジャーナリスト・粟野仁雄)
柴谷さんの連絡先はsibatani@mva.biglobe.ne.jp