反抗期もなかったが、さすがに高校生になると、「母の言いなりになってたまるか」という気持ちが芽生えた。だからあえて1年浪人、そして一橋大学に合格した。

「東京に合格発表を見に来て受かっているとわかったとき、公衆電話から家にかけたんです。合格を伝えて、もし母が“おめでとう”とか“今までごめんね”と言ったら、私はすべて水に流すつもりでいた」

 だが母は「あ、そう。早く帰ってきなさい」とひと言。

 池井多さんの中で何かがキレた。このまま一橋大学を出て、母の望む一流商社マンになる。それが自分の人生かと思うと愕然(がくぜん)としたという。

 東京の下宿や大学寮で暮らし始めたものの、講義には出ずバイトばかりしていた。それなのに就職活動では、やたらと内定が出る。

「でもある日突然、身体が動かなくなったんです。それが最初のひきこもりですね。このままスイスイ内定をもらったら母の思うつぼ、母を追認することになる」

 当時、大人気の一流企業に内定していたのに、それを蹴って2年留年した。

「朝6時まで起きていて、食堂でうどんを食べて寝る。ただ、親から生活費をもらっていなかったから、塾講師のバイトは休めない。ぎりぎりまで寝ていて、這(は)い出して行く。地獄の苦しみでした」

死に場所を求め、海外で「外こもり」

 本当は早く死にたかった。苦しくて医者に行き、うつ病だと診断されたが、死ぬ勇気は出なかった。

 そこで彼は突然、「外こもり」をしようと考える。つまり海外で死のうと考えたのだ。

「どこで死のうかと考え、アフリカが浮かびました。子どものころから、母に“アフリカの子に比べたらおまえはどれだけ幸せか”と言われていたので、本当にアフリカの子が不幸なのか自分の目で見てから死にたいとも思った

 26歳のとき、彼はまずドイツの知り合いのところに身を寄せ、そこからアフリカへと渡った。スーダン、エチオピア、ケニア、内戦の激しかったモザンビークにも行った。

「放浪目的ではなく、自分では死に場所を求めていた。野宿したり安宿に泊まったり。いっそ殺されてもいいと思っていたのに無事なんですよね」

 今思えば、自分にも見栄があったのだろうと彼は振り返る。働きもせずに日本にいるのはカッコ悪い、周りにも知られたくない、海外放浪ならカッコいいのではないか、と。

 3年間、アフリカにいたが、「結局は死ねず、死なずだった」と自嘲ぎみに話す。そんなとき宿泊していた場所に、母親から「父が病気で死にそうだ」と連絡があった。あわてて帰ると、父は元気に会社に行っていた。

「実は母が私に会いたかったのではないかとひそかに思っていたんです」