思い出すのは人間が焼けるにおい、腐っていくにおい。どうして正気を保てたのか─。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾が投下された当時、旧制中学1年だった大岩孝平さん(87)は九死に一生を得た。
きのこ雲の傘の下、沈黙
「腹痛のため学校を休んで自宅で寝ていたら、突然、ピカーッと光ったんです。昔のカメラのストロボをいっぺんに何万個も焚いたような強烈な閃光でした。原爆は“ピカドン”と言われますよね。でも、ドンにあたる爆音は聞いていない。気を失ったのか、家などが崩れる音にかき消されてしまったのか。きのこ雲も見ていません。これは傘の真下にいたからです」
自宅は爆心地からわずか2キロほど。自宅手前の標高100メートルに満たない比治山が爆風除けになり、火の手を食い止めたのだった。やがて、その山のほうから異様な人の波が押し寄せてきた。
「みんな幽霊みたいに両手を前に突き出して歩いてくる。焼けただれた皮膚がぶら下がり、衣服はぼろぼろに破けてほとんど裸。手を下げると皮膚が身体にくっついて痛いんでしょう。髪の毛は焼け縮れて頭部は黒い塊にしか見えない。飛び出した眼球を手で押さえている人もいました。焼け残った場所にたどり着いた安心感からか、次々にバタバタと倒れていきました」
ヤケドのひどい50歳前後の男性が「水がほしい」と言うので、玄関に引き入れて水道の水を飲ませた。男性は「あとでお礼をしたいので名前と住所を教えてくれ」と言い、そんな気を遣う必要はないと断っても聞かなかった。
「しかたなく名前と住所を書いた紙を男性の手に握らせたら、安心したのか、そのまま息を引き取りました。13歳で初めて人の死に立ち会いました」