同じ学部に所属していた親友は、倉橋さんの携帯に送ったメールに気づいたお母さんから、その一報を受け取ったという。
「そのときはまだよく状況がつかめずにいました。お母さんは香衣がトランポリンをしていたことやその前に体操をさせていたことがダメだったのかなとご自身を責めていらっしゃいました」
倉橋さんもその後、母から同じ言葉をかけられた。
「母には“体操をやっていたおかげで生き延びたんや”と言いました。当時は身体も太ってて、首も太くてムキムキしてたんです。あの体重で頭から落ちて生きていられたのは、首の筋肉を鍛えていたおかげなので、本当に体操をやっていてよかったと思いましたから」
前向きになれた理由
手術後、堪え切れない痛みからは解放されたが、寝たきりの生活を余儀なくされる。頸髄が傷ついたことにより、自律神経の働きが弱まり、血圧の調整もできなくなった。
「頭を起こすだけで血圧が下がってしまうので、少しずつベッドの角度を上げて慣らしていって、ベッドの上に座れるようにしていきました」
ケガ後、はじめて倉橋さんと対面したときのことを前出の大学時代の親友が語る。
「最初、なんて言ったらいいのかわからなかったのですが、香衣が“もう足は動けへんかも”なんて笑いながら言ってて、どうしようというようなことは一切言わなかったので、私や周りが泣いちゃダメだなと思いました」
見舞うたびに鉛筆が持てるようになったことやフォークが使えるようになったことをうれしそうに話し、「リハビリのために神戸に戻る。早く動けるようになりたい」と何度も口にしていたという。
「私が悲しい気持ちになる前に香衣がもう前を向いていたので、彼女がすることを応援しようと思いました。一緒に泣いたことも香衣が泣いているのを見たことも1回もないです」
倉橋さんが前向きな気持ちになったわけを正直に話してくれた。
「ケガをしたのは腰が痛かったり練習をしていなかったということもありますが、前日にバイト先の人に誘われた飲み会に顔を出して、寝不足で試合に臨んだという、選手としてダメな姿勢も要因だったと思っています。あとで、その方たちから“自分たちが呼ばなければよかった”と言われたんですけど、私が決めて行ったわけだし、あんな過ごし方をしてたら、そりゃケガをするだろうなと。
それを後悔するぐらいなら自分が動けるようになればいいと思ったんです。自分の好きなように好きな生活ができれば、たぶん後悔はしないだろうなと。リハビリとか今できることをしっかりやっていこうと思いました」
倉橋さんのように脊髄を完全に損傷してしまった場合、現在の医学では機能回復は難しいといわれている。ケガ後の生活の質は、リハビリ訓練で残った機能をいかに活用できるようにするかが大きなカギとなる。