日本人であるプライド
'90年、ビルさんは心臓病で入院中にカオリさんに見守られながら、66歳の生涯を閉じた。
ビルさんのいない喪失感で茫然自失の日々を送っていたカオリさんだったが、彼の財産に多くの税金がかかることがわかると、現実に呼び戻される。
「このままだとビルが愛してやまなかったこの家が人手に渡ってしまう。何でもやる。それしかない!」
これまで拘束時間が長いという理由でやらなかったテレビの仕事も請け負い、死に物狂いで働いた。
「家の維持費や生活費、当時は弟子も含めて居候がたくさんいたから、それをキープするために月に5000ドル必要だったの。あんなにお金を追い続けた時期はないわ」
数年後、税金の支払いのために銀行から借りた借金を完済し、ユニオンから恩給も出るようになった。ようやく暮らし向きが安定する。
そして'03年、70歳のとき、テレビドラマ『エイリアス』でアカデミー賞のテレビ版といわれるエミー賞を受賞する。
「この作品の中でアメリカ人にした芸者メイクがウケたみたいなの。彼らの要望に合わせたから、本当の日本調じゃなくて、私としてはあまり好きな作品じゃないんだけど」
授賞式のコメントはひと言、日本語で「ありがとう」。自分がとるとは考えてもおらず、準備してなかったと笑う。
「お金に困って、いやだったテレビの仕事を始めたことでこの賞がとれたわけだから、どこにチャンスが転がっているかわからないなって!」
'05年、ロサンゼルス・センタースタジオで「KIMONO夢物語」という日本の着物文化の変遷をテーマとしたショーを開催した。カオリさんが総合プロデューサーを務め、古来の装いをした侍や芸者、白拍子などを登場させ、伝統の髪型や化粧を紹介したのだ。
「きっかけはメイクの指名がきたチャン・ツィイー主演の映画『SAYURI』を降りたこと。ただセクシーな舞妓を描きたいという監督の要望が受け入れられなかったのね。それで、私が誇りに思っている日本の伝統美をハリウッドの映画関係者に正しく伝えたいという気持ちが強まったの」
彼らにわかってもらえば、映画を通じて世界に正しく発信してもらえる、そう信じた。
企画から資金集め、PR、舞台演出のすべてを担ったのは至難のわざだったが、延べ180点の着物を披露した一世一代のショーは、米国内外の映画人たちに大喝采で受け入れられた。このことは自身の大きな財産になったと語る。
またロサンゼルス・ディズニーランドでジャパンフェスティバルを5年連続で開催、西海岸を中心にあゆみの箱の募金を展開するなど海外で日本を紹介する活動が称えられ、日本政府から「旭日双光章」を叙勲する。
「私は日本人であることにいつもプライドを感じています。幸い、仕事をするうえで日本人だからって人種的な差別を受けたことは1度もないの。映画界は世界中の人が集まっているから、普通より開かれた社会なのかもしれないわ。感謝しています」