2018年、最年少の天才棋士・藤井聡太に粘り強い将棋で勝利した最年長ルーキーが世間をにぎわせた。将棋ひと筋の人生に苦渋の思いで終止符を打ち、「中卒」のレッテルにもがいた苦労人。アルバイトや会社員を経験しながら挫折を繰り返し、貯金が底をついて介護士に転身。過酷な現場で弱点を克服し、3度目の挑戦でつかんだ逆転人生を追った。

 

当時15歳の藤井聡太七段との対決

 将棋界きっての異端児である今泉健司四段(46)。戦後最年長の41歳でプロ棋士になったオールドルーキーだ。

 対局中はポーカーフェイスを貫く棋士が多いなか、今泉さんは表情豊かだ。劣勢になると顔が真っ赤になって、どんどんうなだれてくる。天を仰ぐようなしぐさや、ため息が出ることもある。

 駒を持った手が、まるで指揮をするように空中で大きく左右に揺れるときは、絶好調のしるしだ。

「バシッ」

 そのまま大きな音を立てて盤上に駒を置く。

 書店員、レストラン勤務、株のトレーダー、介護士など、さまざまな仕事をした末、夢に追いついた。

 今は幸せだと満面の笑みを浮かべる。

「自分の人生は、つまらない人生だとずっと思っていました。そしたらね、つまらないことばっかり起きた。30代後半になって、介護現場でいろいろな人の思いに触れたり、周りの人に助けてもらって感謝したり。一生懸命やっているうちに、けっこう人生って面白いじゃんと思った。そうしたら、面白いことばっかり巡ってきたんです」

 プロ棋士の養成機関である奨励会に2度も在籍。プロにあと1歩のところまで何度も迫りながら失敗を繰り返し、プロ棋士になることは完全にあきらめていた。それだけに、将棋を指してお金をもらえる今の生活には感謝しかないとしみじみ言う。

「対局前に駒を並べるときはいつも、1個並べるたびに、心の中で“ありがとう”と言っているんです」

 2014年12月にプロ編入試験に合格し、プロ棋士になって5年余り。最も注目を浴びた対局は'18年7月に行われた、当時15歳の藤井聡太七段とのNHK杯1回戦だ。史上最年少の14歳でプロ入りし、公式戦で29連勝するなど数々の記録を打ち立てた天才と、真逆の経歴を持つ超遅咲き棋士の対決。誰もが藤井さんの圧倒的有利を疑わなかった。

 ところが、今泉さんは持ち味の粘り強い将棋で攻め続け、藤井さんのミスを誘い、逆転勝ちしたのだ─。

「宝くじで3億円当てたみたい。それくらいすごいことなんですよ」

 予想外の勝利を、こう表現するのは、親しくしている棋士の菅井竜也八段(28)だ。

「対局が終わった直後に、今泉さんが電話をくれて、“奇跡が起きたー!”と。でも、絶対勝てないと思っていたから、“すぐ小さな嘘をつくんだから”と言って、しばらく信じなかったんですよ(笑)。

 将棋ファンの方たちにとっても、今泉さんの1勝は価値が違うみたいで、もう、お祭り騒ぎでしたよ。40歳近くになって、もう1度プロを目指し、夢をあきらめずにずっと頑張っていれば叶う人もいるんだと証明したわけで、今泉さんはアマチュアの英雄でしたから」

 今泉さん自身も、藤井さんに勝てる自信はまったくなかったそうだ。ただ、勝つためのイメージトレーニングは欠かさなかった。

「相手は怪物ですからね。とにかく自分の勝ちパターンに持っていくことを考えました。野球でたとえると、外角高めだけは得意なコースだから、投手がそこに投げるように、いろいろ誘導するという感じで。

 話題にはなったし、いい話のネタになったなとは思いますが、一生の自慢というつもりもない。だって、同じ棋士なんですから。相手が誰でも勝つという気概をなくしたら、トーナメントプロは辞めようと思っています」

 プロになって以来、毎年勝ち越してはいるが、連敗するときもある。タイトル争いには縁がない。もっと勝てるかと思っていたが、「プロの厳しさは想像以上だった」と本音もチラリ。

 将棋を嫌いになったことはないのかと聞くと、即座に否定した。

「26歳で奨励会を退会したころは彼女もいなかったし、将棋が女性みたいなものだと感じていたんです。イヤになって離れようとしたこともあったし、“大好きか?”と聞かれたら、今も微妙なところはあります(笑)。でも、最後に帰る場所は、やっぱ、将棋だなーと」