基本的にはドラマ内の食に関する部分を一括で担当することが多いはらさんだが、まれにレシピだけは別の方が監修したものを指定されることがあるという。
「『私の家政夫ナギサさん』(TBS系)は大森南朋さん演じる“ナギサさん”が作るお料理がキーポイントのドラマでもありましたので、レシピ開発は男性料理研究家の栗原心平さんが担当し、私はそれを再現しました」
人気沸騰中の心平さんのレシピを再現するのは、やはりプレッシャーだったそうで、
「ファンもたくさんいらっしゃるし、心平さんのレシピ目当てでドラマを見る方も多いと聞いていましたので緊張しましたね(笑)。ですが、心平さんのレシピはどれもおいしく、自分では考えもしない味つけだったので、とても勉強になりました!」
特に印象的だったレシピが『サバの醤油煮となめこの味噌バター汁』。なめことバターという衝撃の組み合わせが見事にマッチしていて感銘を受けたそう。また、番組の公式インスタグラムにも掲載され、話題を呼んだ『鶏とアボカドのクリームごはん』も絶品で「女子が喜びそうなメニューもバッチリおさえてらっしゃるとは! さすが!」と、心平さんの人気の秘訣(ひけつ)を実感したという。
34歳で公務員から転身するも……
そもそも、はらさんはなぜフードコーディネーターを目指したのだろうか。
「幼いころから料理の仕事がしたいと思っていたんです。父は教員でかなり厳しい人だったのですが、家族や親戚が集まってご飯を食べているときには彼も楽しそうにしていて……。だから、食に関しては漠然といい思い出があるのかもしれません」
しかし、高校生になり「料理に関する仕事がしたい」と両親に打ち明けるも反対され、料理人の道は断念。なんとなく短大に進み、公務員となる。
「振り返ると、当時は情熱が足りなかったのかもしれませんね。区役所で8年間働きましたが、30歳になる少し前に“自分って本当は何がしたいんだろう”と悩んでしまって。“今からでもできる料理の仕事を探してみよう”と思い立って調べるうちにフードコーディネーターという仕事の存在を知り、『赤堀料理学園』という養成スクールに入学したんです」
ほどなく公務員を退職して半年間のカリキュラムに励み、卒業後は講師だった赤堀博美先生のアシスタントとなった。しかし、3年ほど働き、この間にフードコーディネーターや食育アドバイザーの資格を取得するも、34歳で仕事を辞めてしまう。
「理由は家族の反対でした。当時はまだフードコーディネーターという仕事が今よりも知られておらず、家族から“どんな仕事をしているのかわからない”、“レシピを開発してお金が稼げるの?”などと理解が得られなくて……。私自身、アシスタントとして働くなかで、どうしても将来に自信が持てなかったこともあって、いったん仕事を辞めて休むことにしたんです」
飲食店でアルバイトをする日々を過ごしていたところ、ある日、アシスタント時代にたまたま連絡先を交換した人から連絡があった。
「“単発で仕事があるんだけど、来てもらえない?”と。この案件以降、“依頼されたら絶対に断らない”と決めて働くなかで、少しずつお仕事が入るようになりました」
ドラマの仕事は急なスケジュール変更やむちゃな要望も多いが、いつも「どうにかするぞ!」と思いながら乗り切っている。
「娘を出産したあとも、2か月で仕事に復帰しました。産後の初仕事はキャンプのドラマ『ひとりキャンプで食って寝る』(テレビ東京系)だったのですが、胸の高さまで雑草が生えた現場で作業をし、本来なら事前に準備したものを差し替えるところを、実際に俳優さんが魚を釣ったり料理を作ったりするのを待つという過酷な環境でした。依頼してくださったプロデューサーさん自身が“よくこの仕事を受けたね”と、終わったあとに笑っていたくらい。いま思うとすごかったですね」