汚染された水を飲み、与えた母乳

 2005年、森松さんは、同じスカラシップ生のOBである夫と結婚夫は研修医として1年間、福島県郡山市の病院に勤務したが、このことが、森松さんが郡山市で暮らすきっかけとなる

「地域医療をやりたいから、東京ではなく郡山の病院で働きたい」という思いで、夫は郡山市内の病院に就職。一緒に転居した森松さんも、温泉やスキー場もあり、地方都市でもあり、環境もよい郡山市をとても気に入っていた。

 ロースクール卒業後、森松さんは司法試験を受験したが、合格にはいたらなかった。その直後に妊娠し、'08年に長男が誕生。言葉や文化の違いに戸惑うことも多かった郡山市での子育て。身寄りのない土地で、妊婦・母親教室でつながった友人たちと一緒に、さまざまな「初めて」を乗り越えた。'10年には長女も誕生、4人家族に。ともに母親として成長する友人たちに、森松さんは助けられていた。

 2011年3月11日。森松さんは自宅の中で、0歳の娘を抱きかかえ、部屋の真ん中に座ったまま、激しい揺れと死の恐怖に耐えていた絶対に動くはずのない家具がこちらに迫ってくる

 娘だけでも助かってほしいと、とっさにテーブルの下に押し込むと、遊びと勘違いしたのか、娘はキャッキャと笑顔を向けた森松さんは“この笑顔を見るのが最期かもしれない”と思いながら、せめて、この子だけは助かってほしいと願っていた

 三陸沖を震源としたマグニチュード9の大地震。郡山市は震度6強の揺れだった。息子と夫、2人の命が無事なのか、万が一の覚悟を決めなければならないとも考えた。

 幸い、息子も夫も無事帰宅したが、自宅マンションは地震の影響で水浸しになり、避難所に行かなくてはならなくなった。夫の勤め先の病院に転がり込み、そこで丸1か月を過ごすこととなる。

 病院は停電せず、待合室のテレビが見られた。また、断水もしていなかった。救援物資はなかったが、水さえ出れば「これで数日生きられる」と思った。

 数日の間、テレビにかじりつき、報道から得られる情報を集めていたが、そこで初めて福島第一原子力発電所の過酷事故を知った。

 爆発の映像を見た瞬間、「あれ?」と森松さんは思った。事故を絶対に起こさないと言われていた原子力発電所が、爆発している。すぐに恐怖に変わっていった。原発から郡山市までは、60kmしか離れていなかった。

「“核の平和利用”とうたわれていた原子力発電所が事故を起こせば、出てくるものは原子爆弾と同じですよね。害悪以外の何ものでもない、毒物です

水素爆発で白煙を上げる福島第一原発3号機。事故から10年たっても収束は見通せない
水素爆発で白煙を上げる福島第一原発3号機。事故から10年たっても収束は見通せない
【写真】森松さんの住む郡山市から60km、水素爆発で白煙を上げる福島第一原発3号機

 森松さんは、原発から同心円状に、「5km」「10km」「20km」と拡大していく避難指示の情報を、固唾を呑んで見守っていた。

「きっと、混乱なく逃げるための情報を与えてくれる。60kmまで拡大されれば、私たちも車に飛び乗って逃げ出すのだろうと考えていました」

 国は住民の命や健康をいちばんに考えてくれると信じていた。だから「勝手に避難をしたら混乱を招く、冷静でいなくては」と、恐怖を必死に抑えていた。

 しかし、当時の枝野幸男内閣官房長官は「健康にただちに影響はございません」と繰り返すばかりこのころ、母親教室で知り合った友人からは「逃げたい」というメールが来ていた実際に、福島県外に避難した友人らもいた多くの人が、「ここに住んでいても大丈夫なのだろうか」という不安を抱えていた

 3月23日には、東京都の金町浄水場で、水道水から放射性物質が検出されたという報道があった。それを聞いて、まず「なぜ東京の報道が先なの?」と思った。原発から200km離れた水道水に放射能が含まれていて、60kmしか離れていない郡山市の水道水に含まれていないはずがない。テレビでは「念のため小さいお子さんがおられるご家庭の方は、水道水を飲まないようにしてください」と呼びかけていた。

 翌日には、ローカル局が、郡山市にある4つの浄水場のすべてから放射性物質が検出されたことを告げていたしかし郡山市では、水道水の汚染が報じられても、東京の一部地域のように各家庭にペットボトルの水が配られることはなかった

 避難所にいる森松さんに選択肢はない汚染されているとわかって、水を飲むその水を飲んで出た母乳を泣く娘に与えたこれは、当時の福島県で子育てをしていた人すべてが直面したことでもあった森松さんは、この水の話だけは、つらく、消し去りたい記憶として、2年ほど人前では話せなかったという