「あなたが国連に行ってくれてうれしい」

 '18年、森松さんのもとに、ドイツ在住のジャーナリストから「ジュネーブでの国連人権理事会で、被災当事者としてスピーチをしてほしい」という依頼があった。

 これまでに憲法の条文や基本的人権を盾に、原発事故被害から身を守りたいと訴えてきた森松さん。そのことを知っている周囲の人たちの励ましもあり、ヨーロッパでの受け入れメンバーと、日本でのサポートメンバーに見守られながら、国連人権理事会でのスピーチに挑んだ

国連人権理事会でのスピーチだけでなく、海外から講演を依頼され登壇することも少なくない
国連人権理事会でのスピーチだけでなく、海外から講演を依頼され登壇することも少なくない
【写真】森松さんの住む郡山市から60km、水素爆発で白煙を上げる福島第一原発3号機

 フランスに住む杉田くるみさんは、そのときの受け入れサポートメンバーとして、森松さんの英語スピーチの特訓を手伝った。

彼女は、何も恐れない権力・権威に対し、ひるむことがありません被ばくを避ける権利を国際的人権運動として展開し、国際的に訴える力を持った人

 森松さんについて、そう杉田さんは話す。

 国連でのスピーチ枠を森松さんに用意したのは、国際環境NGOの『グリーンピース』だった。準備期間が1か月もない中、スピーチ前日まで、その内容を詰めるため、日本語・英語・フランス語・イタリア語・ドイツ語が入り交じる大激論になった。

 森松さんは、原発事故後、平和のうちに生存していると思えたことは1度もない」という思いを、どうしても伝えたかった避難していても、福島にとどまっていても、どちらにも当てはまる基本的人権の侵害であるからだ

 同年3月19日、森松さんは国連人権理事会でスピーチした。その直後に届いたメッセージは、スピーチの様子をネット配信で見守っていた、福島県内の人からだった。

森松明希子さん、私はあなたが国連に行ってくれて本当にうれしいあなたは最初から、一貫して、避難した人たちだけでなく、福島県内に残っている人のことも、避難していない人のことも、避難したけど戻ってきた人のことも、全部の人に通じる話をし続けてくれているから

 同じ区域外避難者として、福島から埼玉に避難をしている鈴木直子さんも言う。

人権という視点から訴え続けてくれることに、ありがとう、と思います矢面に立つことは、きっとつらいこともあると思うでも、いつもパワーがあってすごい人です

 また7月には参議院・東日本大震災復興特別委員会に被災・避難当事者として参考人招致された森松さんは、放射線被ばくからまぬがれ健康を享受する権利は、人の命や健康にかかわる最も大切な基本的人権ですと訴えた

 ところが、いちばん聞いてほしかった地元・福島県選出の議員は、森松さんの発言の時間だけ、席をはずしていた──

◆  ◆  ◆

避難した人は、誰ひとり、福島の復興をさまたげようなどとは思っていないんですよ

 と、森松さんは言う。福島が大好きだからこそ、豊かな自然と美味しい食べ物の中で、家族で暮らしていたのだ。

 娘は小学1年生のとき、担任教師に「福島の家も、大阪の家も、私の家」と話したことがある。事故当時は0歳だったが、郡山にある「お父さんの住む家」は「1年に1回だけでも、私が帰る私の家」だと認識している。今でも、子どもたちが夜行バスでやってくる父親に会えるのは、月にたった1度だけ。今年で10歳になった娘の年齢が、避難生活の年数でもある。

 コロナ禍で、「目に見えないものとの闘いで、どんどん日常生活が奪われるさま」は、森松さんに、原発事故当時を彷彿とさせた。

“自粛”は、“自主避難”という言葉の使われ方と似ています

 と森松さんは言う。確かに“自粛”は、自らの自由な選択ではなく“感染拡大がなければ必要なかったもの”だ。

本来、持っているはずの権利を、手放すことを強要されているんです

 長期にわたり“自粛”を強いられる中、森松さんの言葉が腑に落ちる人は多いのではないだろうか。「自主避難」も強いられたものなのだ。

 3・11以後、あらゆる節目の祝い事ですら、森松さんは「めでたい」とは思えない喜ばしさを感じるのではなく、子どもたち、家族に「生きていてくれてありがとう」と思う日だ人権が守られ、すべての人が日々の暮らしの安心を取り戻せたとき、初めて「めでたい」を取り戻せるそう森松さんは考えている

《取材・文/吉田千亜》


よしだ・ちあ フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞