戦況はどんどん悪くなり、物資は足りず、食べ物は配給のみになった。そんな食材すらも徐々に手に入るものが少なくなり、小さなにんじん1本、具のない雑炊をさらに薄めて分け合ったことも。
「弟は勤労動員の無理がたたり、結核になりました。栄養をつけて安静に、って言われても食べ物はありません」
“満州ならなんでもあった”と、淑子さんはたいそう悔やみ、病床の息子を回復させたい一心で食料を探した。
「私たちのようなヨソ者に対し、周囲は冷たかった。母は着物と食べ物を交換するため、農家に出かけては頭を下げた。そうしてジャガイモや卵などの食材を確保し、少ない配給を工夫し、私たちに食べさせてくれたんです」
’44年後半には空襲も激しくなり、満州に残る父と連絡がとれなくなった。心配でたまらなかった。
19歳だった川上さんは仕事で埼玉・浦和から東京まで通っていたが、煙がくすぶる焼け野原を通ることもあった。
「母はすぐに満州に帰るつもりでいたみたいですが、戦争は激しくなり、それどころじゃなくなりました」
本当は生きていたかった
戦争で人生が180度変わった。終戦直後、死を覚悟したことがあった。連合国軍が上陸し、占領されれば男性は殺され女性は乱暴されると噂が流れていたからだ。
「私たちもそれを信じ、逃げることにしました。でも、万が一、敵に捕まったときは潔く自決できるよう、青酸カリを持つことを決めました」
死ぬことが美しい、と教えられていた時代。
「私たちは国のためにいつでも死ぬ覚悟がある、と考えていました。でも、本当は死ぬことがどんなことかもわかっていなかった」
青酸カリを求め、医師の叔父が住む新潟を訪れたが、
「渡すわけにはいかない。死ぬことはない」
と、淑子さんを諭した。
「空襲で命を落とさずにすんだわけだし、青酸カリを飲んで死にたくはなかった。本当は生きていたかった」
川上さんは言う。
「戦争は遠い外国で起きていることではありません。ひとたび戦争が起きれば被害を受けるのは国民なんです」
視線の先には、“20歳の自分と母”が映っていた。
※2017年取材(初出:週刊女性2017年8月15日号)