生活保護課の庁外移転、他区の場合

 東京都23区の自治体で、本庁舎内に福祉課がある区は15区、外に設置している区は8区ある。

 本庁舎内に福祉事務所があり、支所も複数箇所おいている練馬区、世田谷区などもあれば、本庁舎内に福祉事務所が入っていない区もある。新宿区、豊島区、渋谷区、板橋区などがそれだ。

 新宿区は制度利用者の急増に伴い、庁舎が手狭になったために福祉事務所がまるまる外に出た格好となったが、豊島区と渋谷区は新庁舎建設をきっかけに、もともと入っていた福祉事務所を外に出した中野区と似たケースだ。どのような理由で外に出したのだろう。

 2015年5月7日に開庁した豊島区役所は、財政難を補うために再開発手法によって庁舎建設をしたという経緯がある。1階の一部および3階~9階が区役所、1階~2階には商業施設、11階~49階は分譲マンションが整備された、かつてない新しいタイプの新庁舎だ。

 福祉事務所と保健所を除外した理由は、

1、民間と合築で、一階は災害などのときに必要な豊島区の空間(豊島区センタースクエア)と 民間の商業施設となる。区役所が全て占有できない。

2、福祉事務所にはシャワーなどの整備も必要で、三階以上には福祉事務所は置けないなど。(シャワー設備が3階以上に入れられないという理由が分からないが…)

「路上生活者を新庁舎に入れたくない」とは決して言わないまでも、お話しを伺った元区議は『 根本的に「排除の思想・差別」はあったと思います』と、当時を振り返る。

「受給者が並ぶ、そんな状況はみっともないでしょう」

 2014年10月に改築工事が終了した板橋区役所本庁舎南館。当初、福祉事務所機能を入れて本庁舎でワンストップサービスが行えるようにしたいと提案があったにも関わらず、それは実現しなかった。議事録を読むと、いろいろもっともらしい理由が並べられてはいるが、象徴的なのが2014年3月17日の予算審査特別委員会で自民党の区議が発言した以下。

板橋区区議会議員・川口雅敏
「私は、現在の保健所、あそこに板福(板橋福祉事務所)を持っていったほうがいいかなと、そして、旧保健所のところに、また民間活力で保健所を建て、というのは生活保護の受給者が並ぶ、そんな状況は役所の前でみっともないでしょう。向こう側だったらいいんじゃないかなと、そんなようなことも思っておるんですけれども、その辺も少し考えてみていただければと思いますけれども」

 こんなあからさまな差別発言をする人の方がむしろ「みっともない」と誰もが思う世の中を希求してやまない。近年、新庁舎を建設しながら福祉事務所機能を外に出す自治体に通底しているのは、いかなる理由をいくつ並べたところで、本音は生活困窮者を「見えなく」したい差別意識であるように感じる。差別する気はないとどんなに訴えようが、実際には排除のメッセージにしかなっていない。

多様な街の豊かさを分断によって消さないで

 私は中野区民ではないが中野で働き、中野を愛する都民である。

 中野のどんなところを愛しているかと聞かれれば、酒井直人区長が中野区のホームページ内の「区長の部屋」に書かれているように、『情に厚く、あらゆる個性を受け入れるまちであり、また、変わらぬ良さと変わり続ける発展性の両面を感じる』からだ。

 私の職場がある町もおせっかいな人が多い。商店街は特別に活気が溢れるわけでもないが、かといって沈んでもいない。淡々と毎日店を開ける。

 商店街に挟まれた一車線の狭い道には、バスもトラックも、自転車も、人も行き交う。車椅子も、リハビリ中の高齢者も、子どもも、外国人も、入り乱れて通る。車が来ないときには、道いっぱいに歩行者が広がり我が物顔で歩く。見知った顔とすれ違うと挨拶が交わされる。

「ゴチャゴチャしているのがデフォルトだから、かえって交通事故が起きない」と、中野で働き始めたころに地元の人に教わった。多様な人が共存する場は、誰もが「自分はそこにいていいのだ」と思わせる環境だ。豊かで寛容な懐の広い地域だ。

 見えなくしてはいけない。隔離してはいけない。分断こそが無理解、差別の入り口だから。差別の旗振りを区役所がしては、絶対にいけない。

 区長は更に続ける『中野区最大の財産である「人」が一層活躍できるよう、セーフティネットの取組と、区民と区の協働・協創を進め、必ず感染症の危機を乗り越えて、中野の未来を築いていく決意です。』

 中野区が特定の人を新庁舎から排除することなく、さまざまな人が行き交う庁舎を作って、これからの地域の在り方を他区にも見せつけてやってほしい。


小林美穂子(こばやしみほこ)1968年生まれ、『一般社団法人つくろい東京ファンド』のボランティア・スタッフ。路上での生活から支援を受けてアパート暮らしになった人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネイター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで働き、通訳職、上海での学生生活を経てから生活困窮者支援の活動を始めた。『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店/共著)を出版。