仕事から帰った母に秀敏さんの様子を聞かされた真也被告は「頭が真っ白になった」という。
被告は逮捕されたが、母が望んで保釈となった。そして、今日まで事件現場となった実家で母と暮らしているのだ。
検察官が問う。
「あなたが今いる場所はどんな場所ですか」
「自宅でもあり、犯罪現場です」
自活を阻んだ母親
真也被告は今日まで、日課として父の仏壇に手を合わせ、お膳を供え、お水を取り替えているという。それは一生続けていくとも話した。保釈となれば実家に戻るしかないとはいえ、ふと、違和感を覚えた。
母も兄も、秀敏さんが死んだことは残念だが、悲しい気持ちはないし涙も出ない、それよりも真也被告が心配だと話した。極端な言い方をすれば、秀敏さんの死を悼む気持ちがどれほどなのだろうかと思うのだ。
違和感はほかにもあった。真也被告はおとなしく、暴力沙汰など一度も起こさなかったというが、検察がさらりと示した被告の部屋のドアの写真は、恐ろしいほどにボコボコだった。
以前の職場でのトラブルの後、被告が殴って開けた穴だ。ドアは修理不可能なほどの穴だらけとなったが、なぜか取り換えられることもなくそのままだった。
「お金がもったいなかったから」
4~5万円かかると言われ、取り換えないことを選んだのは母だった。実は真也被告には800万円の貯蓄があったにもかかわらず、母は息子に負担させなかったのだ。それどころか、食費以外は携帯電話代すら被告が自分で支払うことはなかった。
秀敏さんはいつまでたっても自活しない被告に苛立っていたという。しかし真也被告はそれを面と向かって言われたことはなかった。母が衝突を恐れて話をさせなかったのだ。さらに言えば、被告の自活を阻んだのも、この母だった。
秀敏さんが自活するよう言おうとすると、「また寝られんなったら困るから」と、30を過ぎた息子を家に置きたがった。その一方で、「(眠れないというのは)うつ状態にあったとは思わなかったか、病院には行かなかったのか」と聞かれると、母親は「うつではないし、時間が解決すると思った」と話した。
検察官は秀敏さんと真也被告の関係がよかった時期と、悪くなった時期に注目。真也被告の職歴と関係していたのだ。被告が仕事をしている期間は関係がよく、無職になったころからその仲は悪化し始めていた。
秀敏さんが酒を飲んでいることを咎めたのも、その日、被告が休みだとは知らなかった可能性を検察は指摘。運転する仕事にもかかわらず酒を飲んで大丈夫なのか、そういう意味ではなかったのか、という質問に被告は、
「そんな心配をされたことは今まで一度もない」
と、可能性すら認めなかった。
農協時代から十二指腸潰瘍、狭心症、そして膀胱がんと体調不良が続いていた秀敏さん。「日常生活は大丈夫だった」と家族の誰もが言ったが、階段の上り下りも大変で、心臓は手術もしていた。
「そんな状態の父親を、殴ったんですか」
の問いには、「頭に血が上っていて……」を繰り返した。しかし一方で、「傷つける気はなかったので(硬い)額を集中的に狙った」とか、「職場に迷惑がかかるから先に電話した」(被告は事件後、職場に電話し、休むことを連絡している)と話す真也被告。
「……ここだけ冷静なんですね」
検察官の言葉に返す言葉はなかった。基本的に大きな声ではっきりと答えていた被告だが、都合の悪い質問には答えを逸らす傾向があり、ときには咳ばらいを繰り返して慎重に言葉を選びなおす場面も見られた。
検察は、母と兄の気持ちを尊重したうえで、また、たとえ秀敏さんの言動に非があったとしても、それで死に至らしめるほどの暴力が正当化されてはならないとして懲役7年を求刑。弁護側は、執行猶予付き判決を求めた。
過度なノルマやプレッシャーに、押しつぶされそうになりながらも、退職金上乗せというメリットを得るまで、仕事を辞めなかった秀敏さん。自身に多額の生命保険もかけていたという。時代が違うと言えばそれまでだが、そんな父の目に被告はどう見えていたのだろうか。そして、家族が愛想をつかす中、最後まで父を父と思おうとしていた被告。
涙を流すほどには悲しくないと家族に言われた秀敏さんの死。たった一度、真也被告が声を詰まらせた場面があった。
リビングにはいつも父がいた。存在を示し続け、我が物顔で金子家を牛耳ってきた傲慢な父。保釈後、家に戻った被告を待っていたのは、その父のいないリビングだった。
「父の好きだった阪神の試合をもう一緒に……」
あとは言葉にならなかった。判決は25日に言い渡される。
事件備忘録@中の人
昭和から平成にかけて起きた事件を「備忘録」として独自に取材。裁判資料や当時の報道などから、事件が起きた経緯やそこに見える人間関係、その人物が過ごしてきた人生に迫る。現在進行形の事件の裁判傍聴も。
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