生きた証を残す
事件現場の焼け焦げた自宅は、発生から1年3か月後に取り壊された。
「犯人が捕まったらあそこへ連れていこうと思って残すつもりだったんです。ですが風雨にさらされ続け、両隣に家もある。瓦が1枚落ちてケガでもされたら困るし、老朽化も激しくなる。そんなことで泣く泣く……」
取り壊しの費用約100万円は賢二さんの自己負担で、以来、長らく更地になっていた。ところが時効廃止を機に、賢二さんが動きだす。
「われわれが必死に署名活動をやったりメディアに訴えたりして、時効廃止に向けた世の中の盛り上がりを感じました。われわれの組織以上の力がはたらいた。これは世の中のみなさんに感謝しなくてはいけない。何か社会に還元できないかと、あの土地を使ってもらうことにしたんです」
この時に、賢二さんに土地の提供を申し入れたのが、地元の小学校時代の同級生で、自転車店を経営する鈴木裕司さん(75)だった。鈴木さんは金町消防団第8分団の団員でもあり、事件発生時、現場の消火活動に参加していた。
「けんちゃんとは小学校6年生のときに一緒のクラスでした。頭のいい少年でね。お互い中学を卒業してからしばらく会っていなくて、久しぶりに同窓会で再会しました。その数年後に火災発生を知らされ、現場に直行しました。その時点では、けんちゃんの家だとわからなかったんです」
後に消防団の団員から事件のことを知らされ、鈴木さんは絶句する。以来、街で賢二さんを見かけると声をかけ合うようになった。
「けんちゃんが自宅を解体した後、区役所へ提供しようかと言っていたんです。消防団も地主から移転を迫られたタイミングだったので、けんちゃんにあの土地をほしいと言っちゃったんだよね」
話はトントン拍子に進み、改正法案成立から半年後の'10年10月、第8分団の格納庫が完成した。敷地の一角には順子地蔵もできたのだが、その資金は順子さんの大学時代の同級生が、毎年の法事に持ってきてくれる「順子基金」から賄われたという。賢二さんが語る。
「祠の隣には花壇もできたことで、家内が事件現場に足を運ぶきっかけになりました。それまでは近づけなかった。献花式の前に草刈りに行くことはありました。人目を忍んで夏の早朝5時ごろに家内と一緒にね。
こっちは何も悪いことをしていないんですけど。ところが花壇を作れば四季折々の花を植えられるから枯らしちゃいけないし、お地蔵さんの水も取り替える。ということで家内は今、週2回行っています」
順子地蔵の完成からはや10年以上が経過し、今年は事件発生から四半世紀という節目だったことから、報道の数が増えた。だが、来年以降は風化してしまうのではないかと、賢二さんは不安を募らせる。
そんな胸の内が届いたのか、順子地蔵がいつの間にか、グーグルマップに表示されるようになった。それは順子さんが生きた証をこの世に残す、明るいニュースだった。
「『順子地蔵』で検索すると地図上の位置と写真が表示されます。一度お試しください。いよいよメジャー・デビューです」
そう喜ぶ賢二さんだが、この青い空の下で、同じ空気を吸っているかもしれない犯人に対しては、こう怒りをぶつける。
「とにかく犯人を捕まえたい。それまでは絶対に諦めない。もはや時効はなくなっているので逃げることはできない。僕ができなかったことをひとつひとつ実現してくれた順子の死は、悲しいとか寂しいという気持ちを通り越して、ただただ、悔しいです。本人の無念を重ね合わせると、犯人を決して許してはおけない」
事件発生以来、その絆を深め、二人三脚で生きてきた賢二さんと幸子さん。いつの日かを胸に、順子地蔵の前で手を合わせ続けている──。
(取材・文/水谷竹秀)