田村さんは'88年に“生前墓”として、この区画を購入。しかし、四十九日に納骨されても、墓石はないままだった。墓石が建てられたのは、亡くなって4か月以上がたってから。田村さんは墓の造りにこだわりがあり、専門家からアドバイスを受けていたという。
「この墓は“吉相墓”と呼ばれるものです。一般的な墓は、先祖が建てた1つの墓に代々入るのですが、吉相墓の場合は、代が替わるごとに子が墓石を建てます。敷地内にどんどん墓が建つことになりますが、今は田村さんの墓石があるだけ。田村さんの名前は黒で刻まれていますが、奥さんの名前も生きていることを指す赤文字で入っています」(墓地の関係者)
墓地代は“数千万円”
墓の向き、石の色や文字などにも細かい決まりがある。高低差のある霊園内でも低い位置を選んだことにも理由があった。上のほうに墓を建てると、財産が増えないとされているためだ。
「田村さんは“墓相学”を大事にしていたそうで、京都の専門家に聞いていました。墓石が小さいのは、高さがあると金銭的に“凶”といわれるから。土は、田村さんの本家の墓がある京都の業者から『備前土』という黄色い山土を運びました。砂利や小石は、子どもが病弱になるとされ、土を敷くことをこだわったそうです。広い敷地の隣にある区画には、祭壇のような笠石があって、墓地代は合わせると数千万円になります」(前出・墓地の関係者)
3月下旬、週刊女性が田村さんの墓の前にいると、男性2人と女性1人がやってきた。聞けば、そのうちの男性1人は田村さんのマネージャーだったという。
そこで、一周忌の予定について問うと、
「特に何もないと思いますよ」
亡くなってしばらくは墓石がなかったことについては、
「そっと送ってほしいということだったんだと思います」
と語る。
田村さんの父・阪東妻三郎さんの墓は京都にある。熱心なファンが墓参りをしやすいようにと、道すがらに立っていた“案内板”を見た田村さんは、怒って引っこ抜いたという逸話が残っている。自分の死は、そっとしておいてほしいと考えたのだろう。
この男性マネージャーに田村さんとの思い出話も聞いた。
「私は50年前から正和さんを担当していました。いちばんの思い出深い作品といえば『古畑任三郎』になるのでしょうが、若いころは『眠狂四郎』ですね。木村拓哉さんが古畑任三郎のものまねをしていましたけど、嫌がる様子もなく、笑って見ていましたよ」