実業家のもとに生まれた「和泉節子」
節子自身も由緒ある家柄であることを強く意識している。'42年、岐阜県大垣市の実業家のもとに生まれた。実家は1000坪の広さがあるという。
「短大を出たら早くお嫁に行くように言われて、お見合い話が100件ぐらい来ました。その中で残ったのが元彌のお父さんの元秀。幼くして宗家を継ぎ、ものすごく努力していたんです。十九代の歴代宗家で、254曲という全曲を仕上げたのは584年続く歴代の中で元秀だけ。
仲人は“尾張のお殿様”といわれた徳川義親先生。お舅さんには“男の子を産んでくれ”と言われましたが生まれたのは2人続けて女の子。3人目に元彌が生まれると、お舅さんは“男の子だ、男の子だ!”と声を出して喜んで家の中を2時間も歩き回られたそうです」
元秀は、元彌の姉である長女と次女も狂言師に育てた。
「女性狂言師は、今まで狂言の世界にはいなかったんです。ただ、女性がやってはいけないという女人禁制は謳われていません。娘たちには、男の子と同じレベルのことをしてきましたよ」
しかし『能楽協会』は宗家を継承した彼を前代未聞だと非難。'02年には“伝統と秩序を乱している”という理由で“和泉元彌を退会させる”という議論を起こす。双方の言い分は真っ二つ。裁判に発展した結果、能楽協会による退会命令は“適当”と判断された。
「敗訴はしていないんですよ。裁判で裁判長が“裁判になじまないので告訴は棄却するから、双方で話し合いをもって和解するように”ということ。2人の姉は、その間も今も、変わらず能楽協会員なのですけどね」
元彌たちは日本各地で“自主公演”を行っている。その活動は海外まで広がっていた。
「全国にある文化会館や教育委員会から直接、宗家に指名がきます。中学校、高校へ多いときで月に15~16校は行きます。北海道の稚内から沖縄の石垣島まで3000kmの移動をしたこともありますよ」
学校での興行収入は、通常の10分の1もないくらいだという。
「それでも日本全国を回るのは、伝統芸能を若い世代に伝えなければいけないからなんです。大切なのは、日本の伝統文化を尊重し、尊敬し合って舞台を作り上げること。これまで世界14か国、40都市に出向いています」
騒動が続いた後、元彌の仕事が減る一方で、妻の羽野晶紀による芸能活動が増えて、それが一家の助けになったともいわれるが……。
「それは、いっさいないですね。彼女が稼いだお金は全部、彼女のお小遣いです。
悪いけど、元彌と羽野晶紀の仕事は違いますから。関西なら“羽野晶紀”という名前を聞くことがあるかもしれませんが、関東で羽野晶紀なんて聞いても“フ~ン”みたいなもんでしょう。それに比べて“和泉元彌”は一応、全国区ですからねッ!」
節子が羽野に関西弁を禁止するなど“10の禁止事項”を申し渡したとされて、'07年には嫁姑関係の悪化から別居と報じられたこともあったが……。
「あれね、私は全然、知らないのよ。上沼恵美子さんに“よくあんなところへ嫁に行ったわね”なんて言われたようですけどね(笑)。彼女は何にも言わずに出ていっただけですから。
嫁と姑の問題じゃなくて、わが家は伝統を守っていくために、普通の家では必要のない“しきたり”とか、いろんなことが大変なんです。
ただね、私よりはずっと楽でしょうよ。私のときは三宅藤九郎という“舅”だった。舞台に立つ人というのは、ものすごく神経質なんです。私は晶紀さんに“ああしろ、こうしろ”なんて、いっさい言わないですから」