スケーターが歓迎される世の中を目指すために
「街で滑るには必要な礼儀作法がある。人に“不快感”を与えないということです」
森田さんは騒音が少なくなる柔らかいウィール(車輪)を使い、また騒音が出るようなトリック(技)はやめている。歩行者のいる歩道は滑らない。
車道では、右左折や止まる際に手信号、また言葉で伝える。夜はスケボーの前後にライトを付けるなど、さまざまな対策をとっている。現在、豊洲を中心に街の施設の至るところに“スケボー禁止”が掲げられている。
「僕はスケーターには、この状況をマイナスに思うな、悲観するなと言いたい。なんで怒られるか? その問題と向き合う機会を与えられているんだから、その状況も頭を使って、スケボーらしく、全力で楽しめって思います。
自分たちなりに考えて、人に迷惑をかけない“答え”を探す。あくまでもスケボーは遊びです。楽しみを一番の目的にしている以上、どんな状況でもその楽しさに対し、社会に対しても真摯な姿勢が必要とされるのだと思います」
スケボーはとかく“自由”と語られる。何にも縛られず、街を自由に滑る……。
「自由といっても、僕たちがいることで他人の自由を奪っているのなら、それはスケボーという遊びの本来の目的とは大きくズレが生じている証拠です。本当の自由を謳歌したいなら、まず人を思いやらなければならない」
森田さんはスケーターが歓迎される世の中を目指す。
「僕はこれまで数十回の骨折の経験から、応急処置が自分でできます。例えば交通事故が起こったとき、警察が来る前に何をしたらいいかがわかる。さらに交通渋滞が起こらないように車が動くなら移動させるとか、手信号が必要な状況であればやる。
街で起こるハプニングに対応できる能力をストリートにいるスケーターたちが持っていれば、遊びながらパトロールしていることになる。僕たちスケーターでも街に貢献することは絶対に可能だと思うのです」
人気の一方で今、スケーターは“邪魔者”にもなってしまっている。
「立場が弱いということは同じく社会的に立場の弱い人の気持ちがわかるということでもある。思いやりを持って、街で困っている人がいれば助ける、味方になるような存在にスケーターが成長していってほしいと思います」
自由や権利というものは、なんらかの責任や義務を果たして初めて得られるもののはず。冒頭の『破壊』という言葉には、“既存の慣習や考え方を壊す”という概念も含まれている。世界にスケボーを広めた専門誌の考えは単純なる破壊行為では決してない。