宮沢「話し合う時間がほしかった」

 一般家庭なら当人たちと親同士が納得すれば結婚となる。当人たちの合意だけでもいい。だが、相撲界と歌舞伎界は支えてもらっている後援会も賛成しないとゴールインは難しい。

 やはり同10月27日に貴乃花とは別に会見した宮沢は、結婚を機に引退するのかと問われると、「簡単には答えが出せない」と明言を避けた。宮沢にとっては当たり前の答えだったのだろうが、相撲関係者と後援会関係者は当然引退と考えていたので、不満だった。

「実は光子さんも両手を挙げて賛成というわけではなかった。それまでビートたけしさんら一流の人たちを自分で選び、りえさんと親交を結ばせたので、やはり一流の貴乃花さんとの交際と婚約には大喜びでした。

 けれど、いざ結婚について現実的なことを考え始めると、りえさんが相撲界に入ったら、遠い存在になってしまうことに気づいた。芸能界の仕事も出来なくなるかも知れない。“一卵性母娘”と呼ばれるほど、りえさんを溺愛していましたから、結婚に不安感をおぼえ始めた」(同・2人の婚約とその解消に深く関わった芸能関係者)

 もし、宮沢が引退となったら、個人事務所社長で全権プロデューサーだった光子さんは困ってしまう。かといって19歳だった宮沢が、光子さんの許しを得ずに「引退します」と宣言するのは極めて難しかった。一方、相撲界と後援会は宮沢が芸能活動を続けたままプリンス・貴乃花の妻になることを認めようとしなかったに違いない。

 1か月後の同11月27日、2人は正式に婚約し、挙式は1993年5月28日と決まった。2人は「ついにこの日が来た」(貴乃花)、「やっと実感が湧いてきました」(宮沢)と喜色満面だったが、光子さん側と相撲界、後援会の思いはバラバラ。宮沢家と藤島家の話し合いがないのだから当然だった。光子さんは宮沢が何より大切だが、藤島部屋と相撲界、後援会も貴乃花は自分たちの宝だった。

 年が明けて1月6日、日刊スポーツ紙が「貴、りえ破局」と断定で報じた。宮沢と貴乃花が沈黙したこともあり、半信半疑のマスコミも多かった。2人が不実を働いたり、重大な隠し事があったりしたわけではなかったからだ。

 しかし、初場所後の同1月27日に2人は別々に婚約解消の会見を開く。宮沢は「話し合う時間がほしかった」と悔しそうだった。「引退の意思は(貴乃花側に)伝えてあった」とも話したが、光子さんの了承は取れていなかった。

「光子さんはCMなど時間のかからない仕事なら出来ると考えていたようです。相撲界と後援会側の意向が分かってなかった」(前出・2人の婚約とその解消に深く関わった芸能関係者)

 理解不足は相撲界と後援会側も同じ。宮沢を失うことが光子さん、芸能界にとって、いかに大きいことかを分かろうとしなかった。最終的に破局の方向に強く誘導したのも相撲界と後援会側だ。

 同日、やはり会見した貴乃花破局の理由について繰り返し「自分の力のなさ」と語った。相撲界や後援会など周囲の反対を押し切れなかったことを指したのだろう。

 仮に貴乃花が「りえには結婚後も自由に芸能活動をさせる」と宣言したら、2人は結ばれていたはずだ。しかし、当時の貴乃花はまだ20歳で、その上、横綱になることが宿命付けられていた身。反対の声に抗うのは困難だった。

 貴乃花は1995年、周囲の期待に応え、横綱になった。同年に結婚したフリーアナ・河野景子(57)とは2018年に離婚し、同じ年には相撲協会も去ったが、もう誰の声にも縛られずに済む。今は相撲の普及やタレント活動を行なう自由人だ。

 一方の宮沢は着々と大女優への道を歩んでいる。

取材・文/高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)放送コラムニスト、ジャーナリスト。1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立。