フィリピンと日本にルーツを持つ異色の力士・舛ノ山大晴関。昨年上梓した『母に捧げた運命の土俵』の中には、優しい表情が印象的な24歳の表情とは裏腹に、想像を絶する数々の困難が綴られていた。
相撲関係者からも注目され、千賀ノ浦部屋を訪問するまでの力士の卵に育っていた大晴少年。しかし、中学2年生の3月、突然、転機が訪れる。
親の離婚、そして父の蒸発。生活苦から母と弟とともに、母の故郷であるフィリピンへ移り住むことになる。
「母の親族たちが住んでいた家は、床下浸水、停電、衛生面……、すべてがカルチャーショック。現地の中学校に入学したものの、言葉がわからない。食事に慣れるのにも大変で、体重も10キロ以上減ってしまいました。
特に、現地の家庭料理に豚の内臓を豚の血で煮込む『ディヌグアン』という料理があるんですが、食卓に並ぶたびに何度も帰りたいと思いました(笑い)。
でも、フィリピンの従兄弟たちの明るさに助けられたし、次第に母も元のポジティブな人柄に戻ってきた。その姿を見て、いつか僕がなんとかしたいって、ずっと思っていました」
家計を助けるためにアルバイトもしていたという過酷なフィリピン生活は、少年の精神面をたくましくする。義務教育期間を終えた彼は、家族を養うため
に働くことを決意。
自然と脳裏に浮かんだのは、志半ばで辞めてしまった相撲の2文字。このとき日本への渡航費を捻出してくれたのは、かつて訪問した千賀ノ浦部屋の親方だった。
「本当に親方には感謝しています。お金を出していただいただけでなく、落ち着くまで母の面倒も部屋で見ていただきました。絶対に強くなって恩返ししたい。その気持ちは昔も今も変わりません」
晴れて力士への第一歩を踏み出した舛ノ山関。同年代がにぎやかな高校生活を送るなか、“家族のため”過酷な土俵人生が幕を開ける。
「制服姿の高校生を見て、楽しそうだなって思うときもありました。でも、親方からは“いま我慢していれば、後にはもっと楽しいことがある”って言われ、それを信じて続けてきました」
入門してから1年8か月が過ぎたころ、フィリピンから弟・千晴さんが帰国。舛ノ山関にはひそかに抱いていた念願があった。
「当時、千賀ノ浦部屋には床山がいなかったんです。弟は手先が器用だったし、フィリピンでの生活を、楽しんでしまうくらいの心の強さと、柔軟さがあった。僕はそんな弟に何度も救われてきた。弟さえよければ、床山になってほしいと伝えました」