生まれは旧満州のハルビン
登紀子が生まれたのは、“東洋のパリ”と謳われた旧満州のハルビン。ロシア人や中国人、欧米人、ユダヤ人、そして日本人たちが暮らし、さまざまな文化が咲き乱れた夢の都である。
しかし終戦後、状況は一変。住む家を失い、1年間を収容所や知人の家で過ごし、1946年の夏、命からがら遠い祖国・日本を目指し、無蓋貨物列車の旅をした。途中、第二松花江の鉄橋が爆撃で破壊され、列車を降りて川を越え、次の駅まで10キロ以上歩かなければならなかった。
登紀子をおぶって布団を丸めたものと大きなリュックを持っていた母が、どうにもならなくなり登紀子を下ろした。
「ひとりで歩きなさい。歩かないと死ぬことになるわよ」
このとき、登紀子はまだ2歳8か月。気丈にも頷くと、線路の上をよちよち歩き始めた。
「ダダをこねることもなく、登紀子はついてきました。あのころから肝が据わった子でしたね」(姉の幸子さん)
やっとの思いで祖国にたどり着いた登紀子一家。
しかし日本に戻った後も、ハルビンでの楽しかった日々が走馬灯のように蘇る。そんなとき、登紀子の両親は旧満州から日本に逃れてきたロシア人たちの苦境を耳にする。
「なんとかしてあげたい」
そんな思いから、ロシア料理レストラン「スンガリー(松花江)」をオープンさせた。
「お店では、ロシア民謡をはじめ、シャンソン、カンツォーネなど世界中の音楽が流れていたの。そんな環境に育ったから、父に『シャンソンコンクール』をすすめられたときも、優勝したらヨーロッパ旅行がプレゼントされると聞き、気軽に受けてみる気になったのよ」
当時、東京大学に合格したばかりの登紀子。東京日仏学院へ通ってフランス語にも磨きをかけた。
コンクールを主催する石井好子さんにシャンソンの先生を紹介してもらい、憧れるピアフの『メア・キュルパ(私の罪)』でコンクールに挑んだ。しかし、
「おうちに帰って鏡を見てごらん。君はまだ赤ちゃんの顔をしている。その顔でピアフを歌っても男心は動きませんよ」
と言われ、悔し涙を流した。しかしこれが登紀子の負けじ魂に火をつける。それから1年、寝ても覚めてもシャンソン。レッスンに明け暮れる毎日を送る。
そのかいあって、20歳を迎えた翌年、可愛いフレンチ・ポップス『ジョナタン・エ・マリ』を歌ってめでたく優勝。憧れのヨーロッパへと旅立った。
「パリでは、シャンソンの大御所リュシエンヌ・ボワイエの経営するライブレストランへ。突然“歌ってみなさいよ”と言われ彼女の代表曲『聞かせてよ愛の言葉を』をお客様の前で歌ったの。日本人がシャンソンを歌うのが珍しかったのか、惜しみない拍手に包まれたわ。
シャンソニエ(小劇場)やディスコをはしごしたのも懐かしい思い出ね。古い石造りの建物の地下など、小さなスペースでギターを持って歌う歌手も多くて、なんか、それがカッコいいの。帰国していの一番にギターを買いに行ったわ」
自分でギターを弾いて、自分の曲を歌う。それがシャンソンだと心躍らせる登紀子。しかし現実はそんなに甘いものではなかった。