“ハプニング”で消えた幻のサードシングル

レコード会社の社長には「ヒットが出なかったらディレクターにでもなって」と言われたデビュー当時
レコード会社の社長には「ヒットが出なかったらディレクターにでもなって」と言われたデビュー当時
【写真】「私の一目惚れでした」と登紀子がノロける夫の藤本敏夫さん

 '66年4月。登紀子は、なかにし礼さんが作詞を手がける『誰も誰も知らない』で歌手デビュー。

 8月には小林亜星さん作曲の『赤い風船』を発表するも、いずれも不発。早くも崖っぷちに立たされた。

「ちょっと前までシャンソンを歌っていた私が、キャンペーンでミニスカートをはいて赤い風船を持って銀座の街角に立っているものだから、大学の仲間からはずいぶんとからかわれたわ。悔しかったけど“なんでもやります”と言った限りは、何としてもヒットを飛ばしたい。

 そんなときに礼さんが作ってくれたのがなんと演歌。えっ、私が演歌って、と思ったけど清水の舞台から飛び降りるつもりでレコーディングしたのを覚えている」

 その曲のタイトルが『恋の別れ道』。恋した男に別れてくれと言われ、《一言死ねと何故言わぬ》と迫るなかにしさんらしい情念渦巻くドロドロの演歌である。

 ところが渾身の1曲ができたと思っていた矢先、まさかのハプニングが起きる。なんと『赤い風船』が日本レコード大賞の新人賞に決定。レコード会社は慌てて、発売したばかりの『恋の別れ道』を回収せざるをえなくなった。

 しかし、この幻のサードシングルを聴いていた人物がいる。歌手でお笑いタレントのタブレット純(50)である。

「ブックオフで20年くらい前、見本版を見つけて買いました。今の登紀子さんが歌っても素晴らしい曲。あわよくばギターの弾き語りで一緒に歌ってみたいですね」

 この曲に未練のあったなかにしさんは西田佐知子さん、美空ひばりさんともレコーディング。今では彼の代表曲のひとつとなっている。

「私が最初に歌ったことは、もう誰も覚えてないかもしれないわね」

 そう言って登紀子は笑う。ところがそれから20年。運命の神様が、再びふたりを引き合わせる。

 '86年、なかにしさんから突然『わが人生に悔いなし』の歌詞が送られてきたのである。この曲こそ、国民的なスターの石原裕次郎さんが最後にリリースし、大ヒットしたシングル曲である。

「礼さんは小説『赤い月』の中で、旧満州牡丹江に生まれ、苦労の末に引き揚げてきたと告白しています。

 当時を振り返って“僕もお登紀も見てきたからね、人の生き死にを。だから安心する”って言われたときは、すごく胸に響くものがあったわね」

 裕次郎さんの、

「人生最後の歌が欲しい」

 その期待に見事に応え、曲を書き上げた登紀子。だが旧満州が結ぶ縁は、これだけではなかった。