シンガー・ソングライター加藤登紀子の誕生
登紀子が歌手として初めて森繁久彌さんに会ったのは'69年。芸能人による街頭募金の草分け的な存在として知られる『あゆみの箱』のステージでの出来事だった。
「『ひとり寝の子守唄』をギターの弾き語りで歌い、袖に下がったら森繁さんが両手を広げて待っていて“僕と同じ心で歌う人を見つけたよ”と抱きしめてくださった。これが森繁さんとの不思議な縁の始まり」
実は森繁さんをめぐる縁には、もうひとつの物語がある。
「大学を卒業した年、学生運動のリーダーだった藤本敏夫と出会い、彼とふたりだけで過ごした夜、別れ際に夜空の下で歌ってくれたのが森繁さんの『知床旅情』だったの」
『知床旅情』は'59年に知床の羅臼で起きた海難事故を知った森繁さんが、その悲しみに思いを寄せ、私費を投じて製作した映画『地の涯に生きるもの』から生まれた。
万感の思いを込めて、こしらえた歌でもある。
「腹の底から歌う彼の歌声は、私の心にずっしりと響いたわ。ひとりの男にこれほどの思いを込めさせる歌の力ってなんだろう。私もいつかこんな歌を作って歌いたい。そんな思いがこみ上げてきたの」
それから1年。学生運動の渦中にいる藤本さんとの揺れ動く日々の中で生まれたのが『ひとり寝の子守唄』である。
「大雪が降った寒い日、東京拘置所に勾留されている藤本さんからハガキが届いた。
《朝起きてトイレの蓋を開けると、よくネズミが顔を出す。言うなれば、そのネズミ君が僕の親友だ》
その文面からふっと歌が浮かんだの。これこそ自分のための歌。そう思えてうれしかった」
しかしその年の3月には、人気作曲家にお願いしたムード歌謡路線の楽曲が発売されることがすでに決まっていた。
─やはり、この曲のレコーディングは無理なのか。
だが諦めたくはなかった。時代は'70年安保闘争が吹き荒れる学園紛争の真っただ中。登紀子はフォークシンガー、高石友也(ともや)さんたちとキャンパスで突撃ライブなどを行い、自らの思いを込めた『ひとり寝の子守唄』をあちこちで歌った。
やがて、この歌を聴いた新聞記者たちの間でも、
「レコーディングするべきだ」
という声が高まっていく。
'69年6月16日。
誰かに作ってもらったお仕着せの歌謡曲ではない、心の叫びを歌った『ひとり寝の子守唄』が日の目を見るときがきた。それは女性初のシンガー・ソングライター加藤登紀子、誕生の瞬間でもあった。
「『知床旅情』がなかったら、そして藤本が私の前で歌わなかったら、『ひとり寝の子守唄』は生まれていなかった。そう考えると感慨深いものがあるわ」
しかし森繁さんはなぜ、この歌に心奪われたのか。それには深い理由があった。
後でわかったことだが森繁さん自身も戦争中、旧満州の新京(現在の長春)でNHKのアナウンサーとして終戦を迎えている。つまり戦後の混乱期を生き抜き、帰国を果たした、まさに同志ともいえる存在なのだ。
「君は赤ん坊だったから知らないかもしれないが、君の声はあのツンドラの冷たさを知っている声だね」
森繁に言われたこの言葉を、登紀子は今も大切にしている。