高倉健さんが登紀子に求めた演技とは
シンガー・ソングライターの草分けとして、数々の栄冠を手にしてきた加藤登紀子。そんなキャリアの中で異彩を放つのが、誰もが憧れるスター高倉健さんとの共演だろう。
『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』で第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞。
押しも押されもせぬスーパースターになった高倉さんが、黒澤明監督の超大作『乱』への出演を断って主演した映画『居酒屋兆治』。この作品で登紀子は高倉さんと夫婦役を演じることになった。
主人公の英治は野球選手として輝くような青春を送り、挫折と再生を経て今は函館で小さな居酒屋を営む。そんな不器用な夫を支え、共に店を切り盛りする妻・茂子。
なぜこの役が自分なのか。登紀子は首をかしげた。
「女優でもない私が健さんの妻役など務まるはずがない。そう思って一度お断りしました。
ところがプロデューサーから“女優はたくさんいますが、加藤登紀子さんは1人しかいない。女優としてではなく、加藤登紀子さんとして出演してください”と言われ、憧れの健さんと共演できる喜びもあり、引き受けることにしたの」
だが撮影前に高倉さんから、「ラストシーンのセリフ、“人が心に思うことは誰も止められない”を言っていただくために、この映画に出ていただいているんです。あとは遊んでいてください」
と言われ、彼の意図が理解できずに登紀子は驚いた。
だが撮影が進むうちに高倉さんが何を言わんとしているのかが、おぼろげながら見えてきた。余計なテクニックを排して、最小限の言葉で演じる人物の心情を表現する。それが“高倉健”だと知ってはいた。
「共演してみて健さんにとって大切なのは“心で何を思っているか”。それを知って、健さんの言葉の意味が腑に落ちました」
登紀子には、高倉さんとの共演で忘れられないシーンがある。
「英治が留置場に入れられ、茂子が迎えに行く。その帰る道すがら、腕を組みながら私が思わず深いため息をついてしまったの。そしたら健さんがポツリと“思い出すんですか”と呟くのよ。
学生運動のリーダーで刑務所に入ったことのある夫のことを健さんは知っていて、だからこそできる演技がある。そう考えていたんだと思う」
役者個人の生き方が芝居に出る。高倉さんがにらんだとおり、映画『居酒屋兆治』には登紀子の夫・藤本敏夫さんへの燃えるような思いが、深く深く刻まれている。