夫との出会いは強烈な個性のぶつかり合い

80歳を超えて、ますます活動的に。この日も取材の後、福岡でのコンサートのために東京を飛びたった 撮影/佐藤靖彦
80歳を超えて、ますます活動的に。この日も取材の後、福岡でのコンサートのために東京を飛びたった 撮影/佐藤靖彦
【写真】「私の一目惚れでした」と登紀子がノロける夫の藤本敏夫さん

 芸能界に一大センセーションを巻き起こした'72年5月6日の「獄中結婚」。

 登紀子と藤本さんの獄中結婚へ至る道は険しく、まさに茨の道であった。そもそもふたりが出会うきっかけになったのは、'68年に遡る。医学部の学生が研修医制度の変革を要求して卒業式をボイコット。もう歌手が続けられなくてもいい。そう決心して登紀子は安田講堂前の学生たちの座り込みに参加した。

 その報道記事が思わぬ反響を呼び、当時、三派全学連委員長だった藤本さんが、

「会いたい」

 と言って、加藤家が経営するレストラン「スンガリー」を訪ねてきた。

 学生の集会に来て歌を歌ってほしいという藤本さんの申し出は断ったものの、

「白いワイシャツに黒いズボン姿で、うつむき加減に入ってきた藤本は、まるで健さんみたいで、あっと驚くほど素敵だった」

 登紀子の一目惚れから始まったふたりの恋。しかし藤本さんは、学生運動のリーダーとして行動を起こすたびに逮捕と保釈を繰り返す。やがて長い裁判の末に3年8か月の実刑を受け、下獄する日が迫っていた。

「私から結婚を切り出しましたが、彼は“自分は学生運動のリーダーとして責任がある”と言って、頑なに反対するばかり。固い決意を聞いて下獄前に結婚を諦めたんです」

 ところが彼が行ってしまって10日が過ぎたころ、登紀子は体調の異変に気づく。彼の子どもを宿していたのだ。

「気分が悪く、誰にも相談できないままシーツに潜って泣きました」

 行った先の病院の先生から、

「結婚できなくたっていいじゃないか。彼のためにも子どもを産みなさい」

 そう背中を押されて登紀子は、ハタと気がついた。

─結婚しないと会いに行くこともできない。

 そこで登紀子は手紙に、

「あなたと結婚し、子どもを産む、と決めました。歌手をやめてもいい。新しい命と生きていきます」

 と書き、獄中結婚へと突き進んだ。だが彼の本心はどこにあるのか。結婚予定者として特別面会が許され会いに行ったときも「うれしい」のひと言は彼の口から出なかった。

 しかし死後に見つかった藤本さんの日記には、《'72年5月。中野刑務所に加藤登紀子がやってきた。結婚して子どもを産みます。僕は嬉しかった》

 そう記されていた。

 出所した夫の藤本さんは'76年、無農薬有機栽培の野菜を東京の消費者に直売する『大地を守る会』を設立。このころから田舎暮らしを考えていた。しかし車の運転もできない登紀子が、3人の子どもを育てながら田舎暮らしをするのはムリ。きっとすぐに破綻すると思い、

「田舎へはあなたひとりで行って。私は東京に残るわ」

 きっぱりそう言うと、

「これから俺がつくろうとする生活に、ついてくるのかこないのか」

 と藤本さんは啖呵を切った。

「俺の収入で生活しろ。これが、これまで加藤登紀子の旦那と言われてきた夫の本音。カッコいいと惚れ直した。だけど私はそんな生き方はできない」