離婚の二文字が浮かんでは消える

「分断されている人たちをつなげたい」。歌の力を信じて、登紀子は今日もステージに立ち続ける 撮影/佐藤靖彦
「分断されている人たちをつなげたい」。歌の力を信じて、登紀子は今日もステージに立ち続ける 撮影/佐藤靖彦
【写真】「私の一目惚れでした」と登紀子がノロける夫の藤本敏夫さん

 ふたりの間に離婚の二文字が浮かんでは消える。そんなつばぜり合いが続く中、藤本さんの会社の若い社員から仲人を頼まれた。結婚式の席で、

「僕は女房にこういう結婚式をさせてやれていない。申し訳ないなと思います」

 夫のこのスピーチを聞き、登紀子はふたりで生きていこうと決めた。

 '81年、藤本さんは千葉県鴨川市の山中に移住し、『鴨川自然王国』を設立。ふたりは新しいカタチの夫婦関係を築いていく。そんなふたりを次女で『鴨川自然王国』を継いだ、シンガー・ソングライターでもある八恵・Yae(49)はこう話す。

「私が幼いころから、両親は時事問題についてよく議論を闘わせていました。'92年に父が突然、参議院選挙に出馬した際は大ゲンカ。学生運動で挫折した後も父は“国を変えたい”と思い続けていました。

 一方の母は“政治で変えられるわけがない”と言って平行線。ふたりとも“自分に真っすぐであれ”“嘘をつかないで生きていこう”が心情。だからこそぶつかり合っていたんだと思います」

ハルビンの思い出を抱き、声で演じたジーナ

ラトビアの子守唄を原曲としたロシア語の歌謡曲『百万本のバラ』。登紀子は日本語で歌い自身の代表曲に
ラトビアの子守唄を原曲としたロシア語の歌謡曲『百万本のバラ』。登紀子は日本語で歌い自身の代表曲に

「アニメーション映画『紅の豚』のジーナこそ、私」

 そう公言してはばからない登紀子。それは一体なぜなのか。

 映画『紅の豚』は、世界恐慌時代のイタリア、アドリア海を舞台に飛行機を乗り回す海賊ならぬ空賊と、空賊を狙う賞金稼ぎを生業とするブタの姿をした退役軍人操縦士が織りなす物語だ。

 登紀子が演じるのは、アドリア海の小さな島でお城のような店を開いているマダム・ジーナ。宮崎駿監督からオファーを受け、登紀子の心は躍った。

「『ホテル・アドリアーノ』でフランスのパリ・コミューンという革命のときに歌われた『さくらんぼの実る頃』を歌うシーンを、オープンしたばかりの私たちの店『テアトロスンガリー青山』で作画資料として撮影しています。

 目の前で監督が、小学生のようにうれしそうな顔をしている姿が微笑ましくて、よく覚えているわ」

 歌に合わせて登紀子はジーナの動きも演じていく。宮崎監督の思い描くジーナはとてもセクシーだった。客席に向かって手を差しのべ相手をじっと見つめたかと思うと、手と手が触れた途端に目を伏せる。またフランス語で「フェット(お祭り)」と発音するときは、ふるいつきたくなるように色っぽい唇で歌う。

「ジーナのモデルはマレーネ・ディートリヒでしょう? と聞いたら、宮崎監督はご想像にお任せしますと言っていたわ。あのシーンは、ロシアアバンギャルドを思わせる独特の世界観が“東洋のパリ”と言われたころのハルビンとよく似ていてとても素敵。そういう意味も込めて、ジーナこそ私の理想の女性なんです」

 静かにグラスを置くと、登紀子はうれしそうに微笑んだ。

 60周年記念パーティーの最後を飾ったのは、今では登紀子の代表曲のひとつとなった『百万本のバラ』。この歌には特別な思いがある。

「もともと、バルト三国のラトビアの子守歌だったこの曲が、スケールの大きなラブソングに生まれ変わり、ソ連末期にはペレストロイカ(改革)を象徴する歌となり大ヒットする。

 私はこの歌と出合い、全米ツアーやカーネギーホール、『紅白歌合戦』でも平和への祝福の鐘を鳴らすような、そんな思いを込めて歌い続けてきました」

 ウクライナ、イスラエル、パレスチナ……。今も世界のどこかで戦闘が行われ、社会は人を分断する暴力に満ちている。バラの花言葉は“希望”“幸福”“永遠”─。そんな思いを束にして、登紀子はこの歌を歌い続ける。

<取材・文/島 右近>

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。