棚橋弘至は’99年に新日本プロレスのメンバーとなった。
「当時は闘魂三銃士と呼ばれた武藤敬司さん、蝶野正洋さん、橋本真也さんの人気が沸騰し、ドーム会場興行を連発しはじめたころ。プロレス史で何度目かの絶頂期でした」
棚橋は同年10月、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー、初勝利は3戦目。同期はたった1人、大学ラグビーで活躍し、すでに知名度の高かった鈴木健三(現・KENSO)だった。同世代の先輩には井上亘、柴田勝頼らがいる。
「僕は最初からエースになる気でいました。なにしろ100年にひとりの逸材なんですから」
こう言うものの、「団体の顔=スター選手」にはなりたくてなれるものではない。スポーツ誌編集者は証言する。
「彼の世代は鈴木が一歩抜け出ていましたね。それどころか、新日は選手層が分厚い。上の世代ばかりか、彼の後輩にもエース候補がめじろ押しでした。棚橋はケガで長期欠場が多かったし、あのままなら、そこそこのランクに落ち着いていたんじゃないかな」
棚橋はメーンイベンターだった武藤の付き人となる。棚橋はスター選手の言動をつぶさに観察した。
「武藤さんは、"サインなんて読めなくていい。そのほうがファンにはありがたいんだ"が持論。僕もスターになったら、簡単に読めないサインを書こうと決めました」
何とも人を食った逸話だが、こういうちゃっかりしたところもまた棚橋らしい。
しかし、2000年代に入りプロレス人気に陰りが見え始める。新日本も選手の離脱や移籍が相次ぎ、会場に閑古鳥が鳴くようになった。棚橋は、シビアな状況を肌身で痛感する。
「2階席まで満員だったのがやがて1階席しか埋まらなくなり、そのうち、試合のたびに、1列ずつお客さんが減っていくようになりました」
K-1やPRIDEに代表される、格闘技の人気が沸騰したことも特記しておきたい。いきおいプロレスの活気は萎み、それが客離れをいっそう促した。ところが、悪循環に陥るプロレス界にあって、「夢をあきらめない男」だけは意気軒昂だった。
棚橋は逆風の中でも独自のカラーを押し出す。デビュー時の坊主頭からエクステをつけたロン毛へ。鈴木とのタナケンタッグ、U-30無差別級王座獲得、新闘魂三銃士、IWGPタッグ王座奪取……。「新日の新感覚」「チャラい」「脱ストロングスタイル」など賛否両論を巻き起こしつつも、その台頭ぶりは誰もが目を見張った。
棚橋は往時を懐かしむ。
「高校時代にたとえたら、先輩たちがごそっと抜け、オレたち下級生の天下だって感じでした。会場はガラガラだったけど、絶対に僕が満員にしてみせると必死でした」
だが、好事魔多し――。