なぜ、どのようにして「戦後最大の犯罪」は起きたのか……。その謎はまだ十分に解き明かされていない。

 社会を震撼させた地下鉄サリン事件の発生から20年。節目を迎える今、ここからオウム真理教に迫る。

 1995年3月20日。自宅のある埼玉・越谷から職場へ向かう石橋毅さん(51)は、地下鉄日比谷線の車内にいた。いつもの朝、いつもの通勤風景だった。

 座ってスポーツ新聞を読んでいたら、小伝馬町駅を過ぎたあたりで突然、バタンと大きな音がした。どうしたんだ? 見れば、ドア付近に水たまりができていた。飲みものでもこぼしたのだろうか……。

“バタン─”

 今度は人が倒れるような音。正面を見ると、不安げな女性の顔。ザワザワ騒ぐ乗客たち。おかしいと思い始めたころ、誰かが叫んだ。

「毒ガスだ! 早く逃げろ!」

 霞ヶ関駅で緊急停車した電車を降り、逃げようとするもひざに力が入らない。這って階段を上り、ようやく地上へ。青空が広がっていた。ホッとした瞬間、息が苦しいことに気づく。

「タクシーで会社へ向かおうとしましたが、途中で気を失ってしまって。目が覚めると、病院のベッドで点滴を受けていました」

 入院中は断片的な記憶しかないが、病院の職員が誰かに“(原因は)サリンだってよ”と言っていたのは覚えている。4日後に退院してからも、やはりひざには力が入らない。眠りも浅く落ち着かない。

 1週間後には会社に復帰したが、職場でつけっぱなしにされたテレビは1日じゅう、事件のことを繰り返し伝えていた。「いつも誰かにつけ回されている気がする」ようになり休職。

 故郷の新潟へ戻ると、入院先の医師に“躁うつ病”と診断された。

「今となっては、何がどうしてこうなったのか……。ただ、あの事件をきっかけに人生が大きく変わった」

石橋さん
音楽に救われたと語る石橋さん

 ‘96 年2月に会社を去って以来、4回転職した。体調不良から思うように働けず退職を余儀なくされたこともある。生活が不安定になり、離婚も経験した。

 身体のだるさ、ひざに力が入らない感覚は、事件から変わらずに続く症状だ。

「ただ、それが事件の影響なのか、年齢的なものなのか判別が難しい」

 オウムに対する感情は複雑なものがある。

「怒りは、もちろんある。3年前の12月31日、平田信が出頭したときには、ふざけるなよと思った。なんであんなことをしたんだ、被害者はたまったものじゃない、と。’09 年に国から出た見舞金以外、まったく補償はありません」

 その一方で、若い信者が増えているとの報道を耳にすると、やりきれない。

「オウムへ入ってしまう人の生きづらさ、どこにも居場所のない感じは、自分にもわかる気がします」

 そんな石橋さんの支えとなっているのが音楽活動だ。ひきこもり経験や心の病がある人たちの表現集団『K-BOX』に所属。

 芸名“いっしー”としてピアノに向かう。サリン事件について手記を自費出版したことも、気持ちの整理になった。

「青空を見ると、あの日を思い出して調子を崩すことが今でもある。それでも生死にかかわる体験を記して、役目を果たせた。事件を忘れないでほしいです」