なぜ、どのようにして「戦後最大の犯罪」は起きたのか……。その謎はまだ十分に解き明かされていない。

 社会を震撼させた地下鉄サリン事件の発生から20年。節目を迎える今、ここからオウム真理教に迫る。

 

 1995年3月20日を境に高橋シズヱさんの人生は一変した。営団地下鉄(現・東京メトロ)霞ヶ関駅に勤務していた夫の一正さんは、当時50歳。車内のサリンを取り除く作業にあたり亡くなった。

「事件直後はどん底のなかで、なぜ主人が殺されなくてはいけないの? とそればかりを反芻していました」

 ときどき、もう死んでもかまわない、と考えることもあった。まだ涙も乾ききらない同年12月、地下鉄サリン事件被害対策弁護団の提案で、被害者の会を作ることが決まった。

 そこで代表世話人として選ばれたのが高橋さんだった。否が応でも、みんなの先頭に立って、会として活動することになる。

「普通の主婦が、いきなり取材を受けたり、裁判を傍聴したり。最初はわからないことだらけでした」

 だが次第に、いかに世間が被害者やその家族に対して無理解か、権利を認めていないかを思い知る。当時は裁判の傍聴でさえ、抽選の列に並ぶ必要があった。

 以後、支援の重要性を訴えてきたが、いち遺族である自分と代表者としての自分との微妙なずれに悩んだことは数知れない。

 そうしたなかで常に気になっていたのが、3人の子どもたち。事件当時、長女は23歳。長男は父同様に営団地下鉄に勤務する21歳。高校を卒業したばかりの次男は、まだ18歳だった。

「心のなかではいつも“ごめんね”と謝っていました。家に毎日のように、朝から晩まで取材の人が押しかけていましたから。事件のことに触れたくないという子どもたちは、どんな思いだったのかと……。母失格だな、と思っていました」

高橋さん
被害者参加制度を使い最後のオウム裁判の傍聴を続ける高橋さん

 転機となったのは2004年。高橋さんは長女とともにニューヨークに飛んだ。米同時多発テロ事件の被害者や遺族と話をしたい。

 そして地下鉄サリン事件と同じように、大勢の被害者が出た事件の支援がどのように行われているか、知りたいと思ったからだ。

 長女には「ミュージカルを見に行こう」と言って誘った。以前はよく連れ立って観劇に出かけていたが、事件後はそんな気持ちの余裕もなく、ギクシャクした状態が続いていた。

 そんな母娘の関係を修復する方向へ向かわせたのが、ニューヨークで会った元消防士のリー・イエルピさん。彼は消防士の息子を9・11のテロ事件で亡くしていた。

 ‘05 年3月、『地下鉄サリン事件から10年の集い』のシンポジウムにリーさんを招いたとき、高橋さんが知らぬ間に、こんなやりとりが交わされていたという。

「娘はリーさんに、私が被害者遺族として積極的に活動しているのを見て“本当は自分も何かやらなければと思うのだけれど、そんなにできなくて”と、打ち明けたそうです。リーさんは娘の肩を抱きしめながら、“特別なことは何もしなくていいんだよ”と言ってくれたとか。以来、娘はすごく変わりました。無理に頑張らなくてもいいのだと、ホッとしたんだと思います」

 その後、テレビの取材で、期せずして子どもたちの気持ちを聞く機会を持てた。

「子どもたちは子どもたちで、私のことを心配していたことがわかりました。やはり家族って、いちばんの味方なんですね」

 地下鉄サリン事件は、20年たった今も決して終わっていない。先ごろのアンケート調査では、被害者の約3割、家族の6割近くがPTSDで苦しんでいるという事実が浮き彫りにされた。

「でも、私が弁護士の先生や記者のみなさん、たくさんの方々に助けられてここまで来られたように、人と人の巡りあいによって道は開かれるのだと思います」