小さいころから家族で一緒に登山をすることも多く、標高3106メートルもある長野県の北穂高岳にも登った。

「夜中、満天の星空に目を輝かせて喜んで」(大貫さん)

 亡くなる1か月前、陵平くんとその兄を栃木県内の大貫さんの実家に連れて行った。

「私はあまりできないのですが、キャッチボールをしました。これが最後に遊んだ記憶です。小さいときから、陵平はひざの上に乗ってきました。そのときも、ひざ枕をして甘えてきました」

 大貫さんは自殺の理由がわからないでいた。母親との関係は良好だったはずだ。一緒に住んでいないことで何かあったのか、何か見過ごしたのか。それとも学校で何かがあったのか?

「中学校は長男が通っていたころは荒れていて、廊下を自転車で走っている生徒がいました。でも、陵平のときにはもう沈静化されていた。生徒指導で管理が強まったのも一因でしょう」

 中学では野球部に入った。当時、顧問の暴力行為が問題になり、ラジオ番組で取り上げられた。1年生の冬、顧問から「お前、誰がチクったのか調べろ」と言われた。同学年のまとめ役だった陵平くんは「嫌だ」と言って、部を辞めていた。

「今から考えれば、学校生活の圧力をいろんな形で感じていたのは確か。ほかの面も学校からの締めつけが厳しかったと思います」

 なかでもお菓子を持ち込むことへの指導は厳しかった。「お菓子を認めるとタバコにつながる」との考えで指導が行われていた。

 陵平くんの自殺後、大貫さんはすぐに「事実関係を明らかにしてほしい」と学校に申し入れていた。しかし、大貫さんと市教委、学校との話し合いができたのは10月30日。陵平くんが亡くなって1か月がたっていた。多少だが事実を知ることができた。

 亡くなる前日の9月29日。2年生のひとりがベランダでお菓子を食べていた。その後、廊下ですれ違った生活指導主任が匂いで気づいた。

 陵平くんのクラスでも担任が『帰りの会』で「ほかにお菓子を食べた者はいない?」と聞き取り調査をした。陵平くんは友達からお菓子をもらって食べたことを告白した。

 ほかのクラスを含めて生徒9人が教室の半分の広さの『会議室』に呼び出され、12人の教員が指導に当たった。

 「ほかにお菓子を食べた生徒はいないのか?」と教師に言われ、最終的には21人になった。指導中は生徒は立ちっ放し。1時間半に及んだ。指導の結果、生徒21人で『反省文』を書くことが宿題となった。そして、翌週の臨時学年集会でも決意表明をすることになった。