戦争は嫌だ、2度とあってはならないと言うのは当然
平和公園の近くに住む清野久美子さん(58)は元看護師だ。清野さんの母親が住んでいた中島地区は現在の平和公園内にある。自身も被爆2世の清野さんは、あるとき、母親の同級生が減ってきていると感じて伝承者養成事業に応募した。
「(被爆者である)母に改めて聞き、初めて知ったこともあります。原爆が落ちた当時、米兵がいたという話も母からポロッと出た」
母親は当時15歳。爆心地から4キロ付近で働いていた。朝礼後、外出していたとき原爆が落とされた。相生橋でアメリカ人捕虜を見たのは、その翌日。自転車にまたがったままの姿で亡くなっていた兵隊もいた。
清野さんは英語でも講話をしている。そのために英会話を習った。
「“やりなさいよ”という言葉で背中を押されました。英会話学校でも文章を見てもらっています」
清野さんが伝える証言は、16歳当時に広島市内の学校の校舎内で被爆をした男性のものだ。この男性はすでに亡くなった。
原爆が落ちたあと、建物の外にやっとの思いで出た男性は隣に爆弾が落ちたと思っていた。しかし見える範囲の建物はすべて壊れ、市内は火の海になり、遊び場だった丘も焼けていたのを見て、男性は「広島が死による」と呟いた。この男性はのちに中学の教員になり、清野さんも教わったことがあるが被爆体験を詳細に知っていたわけではない。
今年6月、バラク・オバマ大統領が原爆を投下したアメリカの現職大統領として、初めて広島を訪れた。
「(アンケートに)カナダやオーストラリアから来たと書く人が多かったんですが、オバマさんの影響なのかアメリカから来たと書く人が増えました。“ごめん、ごめん”と涙を流したアメリカ人の女性もいました」
憲法改正が囁かれるなど戦後日本が掲げてきた平和主義は岐路に立っている。