裁判所はこれらの答弁を重くみて、今年3月に和解勧告。そして、「被告は、亡A(悟さん)が同局に転入後に抑うつ状態を罹患したこと、異動願が叶わなかったこと、自死に至ったことに遺憾の意を表する」との日本郵便からの謝罪、および和解金の支払いを盛り込んだ和解が成立したのだ。

 和解の記者会見で清美さんは「子どもたちに“お父さんは悪くない”と報告できます。今年12月の七回忌を前の和解でよかった」と安堵の顔を見せた。

 だが、問題が終わったわけではない。日本郵便では毎年数十人が自死し、メンタル疾患での休職者も3ケタを数えると推測されている。裁判を支えた『さいたま新都心局の責任を追及する会』の倉林浩さんは「今年も某局のボイラー室で役職者が首つり自死した。労働環境を改めない限り、同じことが起こります」と闘いが道なかばであると訴えた。

「この閉塞感の中で…気力も体力もありません」

 和解記者会見を見守っていた1人に市民団体『全国過労死を考える家族の会』(以下、家族会)の東京代表、中原のり子さんがいた。

 夫の小児科医、中原利郎医師は過労からうつ病を発症し、1999年8月16日、都内の病院屋上から飛び降り自死した。享年44。

 日本の勤務医の多くは、日中の外来診察のあと徹夜の当直をこなし、そのまま再び日中外来をこなす36時間労働を月平均4回弱も行っている。中原医師は最多で8回も行っていた。

 しかも病院では6人いた小児科医が退職で4人に減り負担が増えたのに、辞めた1人である小児科部長の後任として中原医師が部長代行を務めることに。病院の売り上げや経費削減にも心を削り、睡眠薬を常用するほどに疲れ果てていた。「このままでは病院に殺される」と家族に漏らし、はたして、自死した。

 直後、中原医師の机から遺書ともいうべき「少子化と経営効率のはざまで」と題した書面が見つかる。そこには、小児科医が減るのに反比例して負担が過重になる現状が綴られ、「この閉塞感の中で医師という職業を続けていく気力も体力もありません」との言葉が吐露されていた。

中原さんの夫が残した遺書。家族にあてて《中原の名は棄ててください。墓、葬式、一切無用です》とあった
中原さんの夫が残した遺書。家族にあてて《中原の名は棄ててください。墓、葬式、一切無用です》とあった
すべての写真を見る

 これを読み、中原さんは「これだったのか!」と夫の死を理解し、「夫は何も悪くない。家族も悪くない。夫の死は個人的な死ではなく、社会的な死だ」と即座に闘うことを決意した。

 '01年、夫の死の労災認定を労働基準監督署に求めるが、労基署は「当直は労働ではない」との理由で「不認定」を決定。'04年、東京地裁に不認定取り消しを求めた行政訴訟は'07年に勝訴が確定。'02年に病院を相手取った損害賠償請求は'10年、最高裁が和解勧告を行い、病院の謝罪と和解金の支払いで解決に至る。闘いは実に10年に及んだ。