3度目の上京。畑違いの栄養学校に入学
“なんとしても東京で一旗揚げたい──”
そう決意して21歳で3度目の上京をした丹青年が選んだのは、世田谷栄養学校への入学。これまでとは畑違いの分野の学校を選んだ理由をこんなふうに語っている。
「5月になっていて、入学願書の提出なんてとっくに締め切っていて、学校に行ける状態なんかじゃなかった。それに東京に出て泊まるところにも困ってた。だから寮があって月謝が安いので選んだのがここ。栄養とか調理にはなんの興味もなかった」
だが、ここで今も大切にしている教えを得る。
「山から下りてきた母に“これからなにをするんだい?”と聞かれ、学生寮の中で親子でしみじみと話したのね。
母は“道夫、利益はひとり占めしちゃダメだ。利益はみんなに分配して初めてもっと大きな利益になるんだよ”と。僕が思うに、母自身の経験から出た言葉だったんだろうね。うちの父は金ばっか集めて誰にも分け与えなかったでしょう。だから誰もいい仕事を持ってこないんだと」
母の言葉を胸に刻みつけた丹青年は同校で2年学び、栄養士の免許を取得して世田谷にあった大病院に就職した。
だが生まれて初めてのこの安定した職場を、丹さんはまた辞めてしまうのだ。
「結核患者の喫食率を調べたいと協力を頼んでも、周囲は仕事が終われば一刻でも早く帰って趣味に走る人ばかり。そのうち調理場のおじさんが僕を呼んで、“公務員は遅れず、休まず、仕事せず”だと。でも僕は全力を尽くしてやりたい。だからそれを聞いたときに、“これじゃダメだ”と。それで辞めたのね、そこを」
そのあと料理学校の生徒勧誘の仕事に転職、多くの生徒を勧誘した。
「上の人から“丹くん、才能あるよ”と言われたの。“どうしてですか?”と尋ねると、“丹くんはお辞儀の仕方がいい”と。あのときはうれしかったねえ。営業職で生涯生きていこうと思ったね」
丹さんは当時27歳。初めて手にしたやりがいに燃えていたが、突然、故郷から前途を中断させる知らせが届いた。
なにあろう高助さん死去の知らせで、ようやっと打ち込めそうな仕事を見つけたというその矢先に、故郷への帰郷を余儀なくされてしまったのだ──。
初めて手応えを感じた仕事を、よりもよって義父・高助さんの死で阻止されて……。
あのまま営業職を続けていれば、まったく別の人生を歩んでいたかもしれない。だがこの帰省がのちの成功につながったことを思えば、帰郷はむしろ高助さんからの最後の贈り物だったのかもしれない。
愛媛に帰った丹さんは大保木村を出、愛媛県西条市に転居、この地で『西条料理教室』を開いた。医師の奥さんや花嫁修業中の企業経営者の娘さんなど、60名ほどの生徒さんが集まったが、当時の四国の小さな商圏では、すぐに行き詰まってしまった。
丹さん自身も、故郷でなく東京でひと花咲かせたいと痛切に思っていた。
いつか呼び寄せるからと母・ウメさんに約束。寝袋片手に上京した。もう後はないとの覚悟を決めて、4度目の上京である。