志村けんさんが亡くなったのは、2020年3月29日のことだった。入院からわずか9日。享年70。映画の初主演が予定されるなど、稀代のコメディアンが新たな舞台へと踏み出そうとしているタイミングだった。その死を悼みつつ、志村さんや彼を愛した人たちがテレビで近年語った言葉を振り返ってみたい。
今回の訃報に際し、志村さんと親交があった多くの芸能人が、彼に関するエピソードを語った。よく聞かれたのは、プライベートの志村さんはとてもシャイな人物だということだった。
彼はあまり自身の“素”をテレビで見せなかった。理由のひとつには、恥ずかしさがあったのだろう。と同時に、コントを演じるにあたって邪魔になると考えたのだろう。ある対談で「(志村さんは)苦しい部分とかつらい部分とかが想像できない」と言われると、彼は答えた。
「それを出しちゃうとダメ。プライベートを売ってる人もいるじゃないですか。トークでもなんでもね。プライベートをなるべく出さないようにする。普段、何やってるんだろう、って思わせてるほうがいい」(NHK総合『SWITCHインタビュー 達人達』2015年11月14日)
笑わせるのではなく、笑われる
自分は普段からあまり喋らない。でも、役に入ると大胆なこともできるような気がする、と。だから、テレビのお笑いの中心が芸人の“素”をさらけ出すロケやトーク中心のバラエティー番組に移行しても、彼の主戦場はずっとコント番組だった。
その姿勢は、まさに“職人”と呼ぶにふさわしい。彼は繰り返し「名作を作りたい」と語っていた。
「ひとみ婆さんが出てきただけで笑えると。で、この人がこうなってこうなって、もう次こうなるのわかってる、でも笑っちゃう。それは間とタイミングなんですよね。『待ってました』ってのが好きですね」(NHK総合『スタジオパークからこんにちは』2015年7月14日)
また、コントの職人としての志村さんは、自分の理想とする笑いを客に押し付けなかった。客を“笑わせる”のではなく、客から“笑われる”。彼は常にそこに自身の立ち位置を求めた。自分の笑いは動きが7割、言葉が3割と志村さんはよく語ったが、それは、万人から“笑われる”ためには譲れない、信念とでも呼ぶべきものだったのだろう。
「お子さまから年配の方まで、わかりやすい笑いが好きなんで。動きのほうが笑いとれるというか、笑ってくれるじゃないですか。そういう信念はあまり変わらないですね」(同前)
だから、彼は舞台での客の拍手と笑い声の中に身を置き続けた。同時代の芸人たちと同じく舞台からその芸歴を始めた彼は、客の反応が聞こえる場所を、終始求めたのだった。
「舞台でやると、お客さんの反応と拍手と笑い声が、すごい自分の中の勇気と自信になってくるのね。やっててよかった、これでもう1年このままでいけるな、って思うわけ。間違ってなかったなと思うわけ、自分が」(NHK総合『SWITCHインタビュー 達人達』2015年11月14日)