「夫でバンドメンバーである鮎川誠さんと出会ったのは博多のライブハウス。当時17歳だったシーナさんは『シナロケ』前に組んでいたバンドのギタリストとして、演奏していた鮎川さんに話しかけたそう。すぐに意気投合し、その日から一緒に住むように。しばらくして、ふたりの間に双子が生まれると、実父に子どもを預けてロックを本気でやるために、ふたりは上京したんです」(音楽誌ライター)
上京後は、仕事のパートナーにもなった。
「’78 年に『シーナ&ザ・ロケッツ』のボーカルとしてデビューしました。もともと父親の仕事の関係で、幼少期から洋楽のレコードを聴いていた彼女は、根っからの音楽好きだったといいます。デビュー当時は、日本ではまだ女性がボーカルのロックバンドは少ないのに、歌に加えファッションや仕草にも、洋楽が身体に染みついている感じでした」(前出・ライター)
日本の女性ロックボーカリストの第一人者だったシーナさん。晩年までレザーやスパンコールの衣装、ピンヒールに真っ赤なリップと“ロック”な見た目も貫いた。一方、夫との出会いを’08 年の雑誌のインタビューで語っている。
《彼に会ったとき、魔法がかかった瞬間だって思ったの。素敵なドアを開けたら、探していたものがあちらこちらにあって、アレもコレも、全部手に入ってしまったのよ》
“ロックが好き”で、その生涯を走り抜けてきたが、音楽だけでなく、家族へも同じように愛情を注いでいたという。
「料理を作るのがうまいし、夫を立てるのもうまかったと聞きます。仕事も家事もこなす母を娘たちも慕っていたそうで、もちろん鮎川さんもゾッコン。夫婦はほとんどケンカをしたことがないらしいです。シーナさんが亡くなった際は“愛するシーナが俺を残してこの世を去った。これ以上の悲しみはない”と話していました」(スポーツ紙記者)
そんなシーナさんの最期は病室で『シーナ&ロケッツ』の音楽が流れる中、鮎川に抱えられ、家族に手を握られながら永眠したという。
「当初はシーナさんが愛した下北沢で、家族葬を予定していたんですが、彼女を偲ぶファンがあまりにも多くて、告別式を一般にも開放したんです」(前出・スポーツ紙記者)