地下鉄サリン事件から今年で20年。オウム真理教にわが子を奪われた親、自ら青春を捧げた子どもたちにも、それぞれの20年があった――。
高校生のとき、麻原彰晃著の書籍を読んだことをきっかけに、美波つぼみさん(仮名=43)は入信した。
「スピリチュアルなものに興味があった。自分が何かをしなければいけないと思ったんです。巫女になるべきとも思っていた」
もともと友達をつくるのは得意ではない。小学校のときのいじめが中学1年生まで続いた。話すのが苦手だ。
一方で、家族との関係は悪くはなかったが、本音で話し合ったことはなかった。「あれはダメ。これはダメ」と日ごろから行動規制が多い親は、娘のオウム入信に納得いかない。
「包丁を持ってきて“みんなで一緒に死のう”と言われたこともある。出家するしかないと思った。といっても当時、教団からマインドコントロールされていた自覚症状はありません」
在家信者になり、帰宅が遅くなってからは、親に怒られることが多くなった。美波さんは余計に反発した。
「なんで理解してくれないの? 心が痛い。悲しみしかなかった」
‘90 年4月、教団は沖縄県で合宿勉強会を開いた。いわゆる『石垣島セミナー』だ。2月の衆議院選挙で全員落選したことにより、引き締めの目的で開催された。
高校を卒業した美波さんはこのとき出家した。
「すべてを捧げよう」
セミナーの参加費はほとんどが借金。母親をなんとか説得し、不足分はアルバイトで返さなければならない。教団施設で暮らしながら、アルバイトで借金も返した。
「住む場所は与えられましたが、自分で求人雑誌を見て仕事を探すんです。警備員のバイトをしていました」
共同生活でさまざまな情報交換をした。仲間意識が高まることになる。
‘92 年ごろ、上九一色村に移り、教団所有の別荘『第二上九』で暮らした。所属していた演奏班は、
「友人同士が生活をする、ゆるい部署でした」
‘94 年に演奏班は解散。製本工場に異動となった。印刷の仕事を始めるように。
「機械が止まっているときは雑談するけれど、基本的にはまじめにやっていました。“おなかすいた”などの煩悩的なことは言わないで」
外界の情報には、ほとんど接することはない。’95 年1月に阪神・淡路大震災があっても、気にとめなかった。3月の地下鉄サリン事件も、リアルタイムには情報は入らない。
「あとで情報が入ってきましたが、私たちとはまったく別の出来事みたいで興味がなかった。情報がないから判断すらできない。考えることを放棄していました」
強制捜査が入った。窓を開けると突然、警察が来ていた。「出て行け! 弾圧するな!」などとシュプレヒコールをあげていたことを覚えている。
麻原死刑囚が逮捕されると、財政部へと配属された。そこでも自らがアルバイトをして資金を稼いだ。8000円のお小遣いを除き、給料はお布施だった。
ただ、外出することで、「ちょっとずつ煩悩が揺らいできた」という。ひとり暮らしを始め、行方不明という形で脱会した。
「信徒をやめたら、大きな病気になりました。余命2~3年だと言われて“教祖に背いたから?”と思いました。治療をしていくうえで、教えがしがらみになってしまった」
それも今では解放された状態だという。
「信徒はグルを24時間思い続けるもの。でも、今の私は思い出せない。砂のように流れ溶けていく」
家族と連絡が取れない信者が多いなか、美波さんの親たちは受け入れてくれた。
信者も元信者も、身の置きどころがなく、自分には居場所がないと感じている人は珍しくない。
「教団がなくなれば“迷える子羊”になってしまう人が増えることは確か。一般社会に戻るのは難しい。私は恵まれています」
<取材・文/ジャーナリスト渋井哲也>