白昼の歩行者天国が惨劇に見舞われたのは’08年6月8日のこと。加藤智大死刑囚(32)が東京・秋葉原の交差点にトラックで突っ込んで通行人をはね、その後、トラックを降りてナイフで刺し、7人を殺害。10人に重軽傷を負わせた。’10 年に始まった裁判では、弁護側は加藤死刑囚は犯行時に責任能力が欠けており、死刑は重すぎると主張。しかし、最高裁は今年2月、上告を退け、死刑が確定した。
事件の日、たまたま交差点で赤信号になり、停車していたタクシー運転手・湯浅洋さん(61)の横を、トラックが通り過ぎた。目の前で悲鳴が聞こえた。
「最初は交通事故があったとしか思わなかった。ボーイスカウトや消防団、入社時に人命救助の訓練をしていたので、勝手に身体が動いた」
すると、湯浅さんも後ろから刺された。最初に来た救急車に乗せられ、病院に運ばれた。重篤だったものの、回復し、公判に通い続けた。事件から7年たった今でも、古傷が痛むことがあるという。
「死刑は望んでいたが、ただ終わらせては意味がない。また同じような事件が続くのではないか。なにか引き出さないとダメだ」と湯浅さん。
加藤死刑囚は、インターネットに居場所を求め、ネット上でトラブルがあったと証言した。しかし、湯浅さんはネットをしない。加藤死刑囚の言葉は理解できない。
「友達をつくりたければ、会社でもどこにでもいる。マンションの管理人に挨拶するだけでも仲よくなる。しかし、今の子にはできないのかな。自分で拒否しているのに、拒否されていると思っている」
それでも湯浅さんは事件を理解しようと、加藤死刑囚に手紙を7通送った。面会にも行ったが、会えない理由を書いた手紙が届いただけ。加藤死刑囚の獄中出版本を読んだ。
「内容は公判で話したことばかり。しかも正当化するだけのもの。ただ、違ってきたのは、無関係だとしていた両親のことを書き始めている。死刑が確定し、自己防衛する理由がなくなったのだろう。今後、どう変わるか見たいので、また本を出してほしい」
加藤死刑囚の気持ちが少しわかる人も。群馬県に住んでいた無職A子さん(36)は事件後、都内に引っ越してまで何度も裁判傍聴に通い続けた。
「事件前、ずっと鬱々としていて死のうとしたときもあった。そんなときに事件が起きた。なぜかわからないが、生きようと思った」
A子さんは20代後半までリストカットを繰り返した。感情をうまくコントロールできず、死んだほうがマシと考えていた。
「誰からも愛情を感じず、生きるのがつらかった。友達もいないし、何をやってもうまくいかない。手首を切ると、一瞬、冷静になれた」
現実はタテマエ社会。ネットは本音社会。ネットの掲示板の人間関係は家族同然だった―。そう加藤死刑囚は証言し、A子さんはそこに共感した。
「私もSNSで独り言のようにつぶやくことがあった。反応がないと、本当に私はひとりなんじゃないかと思ったので、気持ちはわかる」
公判中、加藤死刑囚に手紙を10通ほど書いた。恋愛感情はない。死刑確定前の1月にも出したが、1度も返事をもらったことはないという。