ビデオ通話の映像が、腹部がふっくらした若い女性を映し出している。
「60歳にして2人目です。子ども1人だけだと嫁さんが寂しいというので、なけなしの精力を振り絞ってつくりました。今、7か月目。女の子です」
海外脱出で困窮する日本人の悲しき実態
南国のフィリピンからそう近況を報告してくれたのは、現地在住18年になる吉岡学さん(60歳、仮名)だ。「嫁さん」というのは、彼のフィリピン人の妻、ロナさん(28歳)で、年の差は32歳である。
日本では昨今、お笑いコンビ「極楽とんぼ」の山本圭壱(54)が31歳年下のAKB元メンバー、西野末姫(23)と電撃結婚をして話題になったが、フィリピンではそれくらいの「年の差婚」はよくある話だ。
吉岡さんが、ロナさんと出会ったのは彼女がまだ17歳のときで、そのころから11年、事実婚を続けている。
「つくづく俺はフィリピン人かなって思うのよね」
日に焼けた吉岡さんは普段、短パンにビーサンといういでたちで、もはや日本人には見えないほど、風貌も現地化している。
日々の生活はすべて、公用語のタガログ語だ。現在、首都マニラから車で約1時間半の郊外にあるアパートで、ロナさんと10歳の息子、フィリピン人の高齢男性(70代)ら5人で暮らしている。
高齢男性はロナさんがかつて勤めていたトラック配送会社の社長で、1年ほど前から介護が必要な状態になり、吉岡さんが面倒を見ている。
介護料として高齢男性からもらう給料は毎月2000ペソ(約4800円)。アパート代や光熱費などは高齢男性が負担してくれるため、生活は成り立っている。吉岡さんが語る。
「10年前は電気も水もないトタン屋根の家に住み、薪で火をおこしながら生活していました。今はWi-Fiがある環境だし、フィリピンに住み始めて一番安定していますね」
異国の地で薪を割り、火をおこす──。時代が巻き戻ったかのような暮らしぶりだが、一体、どういうことか。
電気も水もないスラムで生活
「困窮邦人」という言葉をご存じだろうか。
フィリピンで経済的に困窮してしまった日本人のことだ。その多くは中高年層の男性で、日本のフィリピンパブにハマり、若い女性を追いかけて南国へ渡る。
ところが女性とその家族に有り金を注ぎ込んでしまい、金の切れ目が縁の切れ目で女性から見放され、フィリピンの庶民に助けられながら何とか生き延びているのだ。
日本の親族とも音信不通で、送金を受けられないために帰国できず、体調を崩して亡くなる困窮邦人も少なくない。
外務省の統計によると、在外公館に援護を求めて駆け込む日本人で、「困窮」に該当するケースは在フィリピン日本国大使館が断トツで多く、直近の統計がある2020年は119件に上り、2位の在タイ日本国大使館の26件を大きく引き離している。
「僕の生活はサバイバルそのもの。一時期は綱渡りのように不安定でした」
そう振り返る吉岡さんが困窮に至るきっかけも、地元四国のパブだった。そこで親しくなった若い女性と結婚し、「フィリピンで商売できるから来ない?」と誘われ、2004年に南国へ飛んだのが運の尽きだった。
「でも到着してみたらね、商売の話はデタラメだったのよ。いろいろあって彼女の家族とも関係が悪くなった。日本にも借金があったから、帰国したくなかったんです」
吉岡さんは、フィリピンに骨を埋める覚悟で、合鴨の卵を拾い集める仕事や縫製工場など職を転々とするうちにロナさんと知り合い、彼女の家に転がり込んだ。
ところがそこはスラム街だった。吉岡さんは、水道も電気もない、ブロックが積み上げられただけの粗末な家で暮らすことに。
「水は近くの井戸でくみ、夜は灯油ランプをともしました。家の周囲に生えている芋の葉っぱを食べて生活していたときもあります」
地べたに這いつくばって生きる。それを可能にしたのはタガログ語を頭に叩き込み、地域社会にどっぷりつかっていたためだ。
フィリピンには現在、約1万5500人の日本人がいるが、吉岡さんほど現地に溶け込んでいる日本人は極めて珍しい。だからお金がなくとも「優しいし、私の話に耳を傾けてくれる」と、ロナさんもついてきてくれた。
その後も紆余曲折あったが、吉岡さんは今、高齢男性の介護や畑仕事などをしながら、共働きのロナさんと二人三脚で、貧しいながらもやっと安定の暮らしを手に入れた。
「フィリピン人はフレンドリーですぐに友達になれる。気候も温暖だし、冬になると身体を痛める人はこっちに来たらいい。俺はフィリピン大好きです」
バブル崩壊後にアジアが注目
ここ近年、芸能人の海外移住が話題になっている。欧米だけでなく、シンガポールやマレーシアなどのアジアも対象だ。
もっとも金銭的に余裕のある芸能人であれば、それこそ「悠々自適」なセカンドライフが待っているだろうが、移住した日本人たち全員が必ずしも理想どおりに生活できるとは限らない。
年金生活者の海外移住が日本で話題になり始めたのは1980年代半ばだ。
当時はスペイン南部の地中海に面する海岸線など欧米を中心に日本人たちが住んでいたが、日本でバブルが崩壊した1990年代初頭以降は、タイやマレーシア、フィリピンなどの東南アジア諸国が経済成長を遂げ、年金生活者の移住先として注目され始める。
時期を同じくして、日本全国津々浦々でフィリピンパブが活況を呈し、パブを入り口にして南国へと渡る日本人男性が増えた。その一部がやがて困窮し、フィリピンを終のすみかとするのだ。
だが、彼らが日本に帰国していたとしたら、それで幸せになれるかといえば、また話は別だ。
困窮邦人の最期
日本人観光客が多いマニラの歓楽街マラテ。その一角に、覚醒剤を密売するスラム街がある。そこに住む1人の困窮邦人が今から7年前、息を引き取ろうとする場面に、私は居合わせていた。
「イテテテテ」
床ずれで苦痛に顔をゆがめているのは田中昇さん(61歳、仮名)。顎には白い無精ひげ、白髪交じりの髪の毛はぼさぼさだ。腰を痛めていたため、ベッドで寝たきり状態だった。
田中さんの「本業」は、夜の歓楽街に入り浸り、日本人観光客を相手にした「観光ガイド」だ。小金がたまると、事実婚のフィリピン人の妻、クリスティー(46歳)と一緒に覚醒剤を吸引していた。
「大麻は酔っ払った状態になるから俺の身体に合わへん。目が覚める覚醒剤のほうが合う。昔は毎日やってたけど、もう年やから、最近はたまにしかやらへん」
大阪府出身。関西の有名私大を卒業後、証券マンとして働いていた。30代で退職した後は、知人の誘いで1992年、フィリピンへ渡り、ゴルフの会員権を在留邦人に販売する仕事に従事した。一度は日本に帰国したものの、やはり肌に合わないと南国へ戻ってきた。以来、フィリピンで20年以上、不法滞在を続けていた。
田中さんは日本に帰りたくない理由をよく、こう語った。
「もし日本に帰ったらおふくろが『あんた何のために大学まで出したと思っとんの!』ってまず言うわ。そしたら一緒に住んでいる妹2人も『まったくや!』みたいになるやろ?
そんなことを飯のときにでも言われたらかなわんで。それが日本に帰れん理由やわ。要するに、日本にはもう居場所がないいうことや」
日本で居場所を失い、フィリピンへ。待っていたのは困窮生活だったが、こと田中さんや吉岡さんは周りにフィリピン人がいたため、お金がなくても何とか生き延びてきた。
逆にこの2人よりお金があっても、現地人との接点がなく、あげくは孤独死してしまう日本人は少なくない。
田中さんが息を引き取った直後、クリスティーは電話口で泣きじゃくっていたが、最期まで彼に寄り添っていた。
「このままマニラにおってもどうしようもないなあと思いながら、いまだに生きている。お金があっても日本には帰りたくないわ」
田中さんが豪快に語った言葉が懐かしく思い出される。
(取材・文/水谷竹秀)